日本刀装具集成・コペンハーゲン工芸美術館蔵・2分冊
買取上限価格 10,000円
定価 | 78,000円 |
---|---|
著者 | 小笠原信夫 |
出版社 | 講談社 |
出版年月 | 1983年 |
ISBNコード |
※買取上限価格は、日焼け・汚れ・書込みなどがない状態での価格となります。
また、市場価格や在庫状況などにより変動する場合がございます。
この商品について
およそ100年前の夏、今もどことなくひなびた感のあるコペンハーゲンの中心地 で、多方面に影響を与えたある催しが開かれた。これは、1851年のロンドン大博 覧会に続いて、ヨーロッパの諸都市でつぎつぎ開催されていた万国博覧会になぞ らえた1888年の大北欧博覧会であった。
北欧諸国からの参加者が大多数であったが、デンマーク博覧会委員会は、その 時代を反映する美術品と工芸品の数々と、世界的にみて最高水準にある工業生産 品の中から代表的なものを選び出し、さまざまな分野にわたる国際的な展示会を 開催することに成功した。
日本政府としては、公式にはコペンハーゲンに不参加を決定していた。当然な がら、翌年(1889年)にパリで開催される万国博覧会に対して総力を挙げることに したのである。この決定はコペンハーゲンでは失望をもって迎えられた。なぜな ら、今日、ジャポニズムの現象に対して学者が興味を持つのは、ほとんど美術に 限られていると言えるが、その当時は、工芸に対する日本の影響は非常に重要視 されていたのである。あるデンマークの美術誌は次のように述べている。 「「ヨーロッパの美術や工芸に対する日本の影響は日毎に強まっている。そこで、 日本が――何はともあれ、この国には工芸に対して定まった様式が確立している ??今夏の博覧会にさまざまな分野から多数のものを出品してくれないならば、 その損失は明白であろう。」
しかしながら、日本の工芸品はパリの美術商サミュエル・バンのおかげで、コ ペンハーゲンの博覧会に出品された。サミュエル・バンは、その頃、西欧と日本 文化や美術の狭間にいて、仲介者として大きな影響力を持っていた。バンは、コ ペンハーゲンの博覧会のために個人的に日本の美術品や工芸品を集め始めた。
サミュエル・バンはドイツ生まれで、ハンブルグの国立工芸美術館の高名な設 立者ユストゥス・ブリンクマンと非常に懇意であった。言うなれば、ユストゥス・ ブリンクマンは、19世紀末に北ヨーロッパに設置されたすべての工芸美術館の後 見者でもあった。ブリンクマンは、1888年のコペンハーゲンの博覧会に日本的な ものを出品するについて、何らかの関係があったと推定できる。とにかく、この
博覧会は、デンマークの首都に国立工芸美術館を設置するにあたり、ある役割を 果たすことになった。
工芸美術館は、日本の刀装具に関する最高のコレクションの一つを手にすることになる。だが、美術館の館員の中には、あえて出版に手をつけること るようなその方面の専門家が見当たらなかった。さらに、デンマーク国内にと のコレクションについての学術的研究を財政面で援助をする可能性もなかった。
ハルバスタッド・コレクションについて日本には知る人もなくはなかったが 美術館の一部日本人研究者仲間が、たまたまこのコレクションの質について好き な評価を下した。 東京国立博物館の刀剣室長の小笠原信夫氏もその一人であっても、 同氏は二度にわたり来館し、当コレクションについて調査、研究をされた。その和文、英文を備えた図録として講談社より刊行される運びとなった。 「当美術館の専属カメラマンのオーレ・ボオルビュ氏が本書に収録したハルバーフ タッド・コレクション-1000点以上の鐘とその他 700点にのぼる刀装具一の写真現 影を任された。そのほとんどが白黒写真であったが、カラー写真もかなりの数にの ぼった。本書の編集が進行するにつれ、最高水準をいく記念碑的出版の様相を見せ始めた。
本書の編集・製作に携わった講談社、講談社インターナショナルおよび大塚氏 藝社に心からの謝意を表したい。日本の友人たちは、工芸美術館への度重なる来 訪のうちに、現館長のヨーン・スコー・クリステンセン氏ときわめて友好的な関係を 結んだ。ヨーン氏の数度にわたる訪日と、熱心な日本側関係者たちにより、本書 の成功は疑いない。最後に、東京国立博物館に感謝したい。東京国立博物館は、 小笠原氏を通じて、われわれに専門的助言を与えて下さった。そのため、作業は きわめて順調に運んだ。
当コレクションに対する民族的関心ともいうべきものに起因する日本側の寛大 な措置のおかげで、このすばらしい大冊が出版でき、フーゴ・ハルバスタッド博 士を永遠にたたえることができよう。
コペンハーゲンにて 1983年8月