日本海軍地中海遠征秘録
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著者 | |
出版社 | 彩苑社 |
出版年月 | 昭和63年 |
ISBNコード |
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この商品について
日本海軍地中海遠征秘録の編集に就て
自大正六年三月至全八年七月 (一九一七―一九一九)
第一次世界大戦に於て我国は英米仏伊等の連合国の懇請に基づき、大正六年(一九一七)三月、日本海軍第二 特務艦隊が大命を奉じて、異境万里の地中海迄遠征し、当時世界最強を誇ったドイツ潜水艦と闘い之を撃滅した ことは世間には余り知らされて居ない。之は当時極秘裡に行われた為である。
当時の記録によれば、地中海に出 征する第二特務艦隊は、大正六年三月七日シンガポールに集結 編制は、
– 軽巡洋艦「明石」を旗艦に、第十駆逐隊(梅、楠、桂、楓)と第十一駆逐隊(松、榊、杉、柏)の九隻から成 り、司令官、海軍少将佐藤皐藏(後中将)の外、首席参謀岸井孝一中佐、兼務参謀坂野常善少佐その他である。
その後、大巡洋艦「日進」及び「出雲」と、更に駆逐艦四隻(樫、柳、檜、桃)も加わって、計十五隻となっ て居り、地中海に於けるドイツ潜水艦撃滅作戦の為、我が艦隊が大活躍したことは眼に 見えるような気がする。 四月二十五日、前記九隻の我が艦 トサイドに到着した時には 連合国の感激は 言語に絶したのである。 数日後、マルタに於ける司令官並びに幕僚合同会議では、被護送船団を重 度に従って六階
けたが、その一級である軍隊輸送船団の護衛と言う最重要任務を優秀な日本艦隊に依頼してはどうかとの議が起 った際、佐藤司令官は少しも遅疑する処なく一番難しい役目を敢然と引き受けたとのことである。そして約一年 半の戦争終決迄、我が艦隊が地中海で立派にその任務をはたしたことは、戦後、我国が英米その他の連合国に対 しその発言力を倍加したと謂われて居る。
即ち、我が艦隊が護送した連合国の艦船は実に七百八十八隻で、その人員は七十五万人の多きに達し、ドイツ 潜水艦とは直接三十六回も戦って居る。このことは、英米両国の公刊戦史海 戦編にも立証されて居るのである。 「我が地中海艦隊は、一年半に亘り非常な困難と苦労を克服してドイツ潜水艦の大部分を撃滅したが、大正七年 十一月、ドイツの降伏により連合国側の大勝利となったので、捕獲したドイツ潜水艦を英国ポートランド港に回 航したのである。
我が艦隊の功績に対する欧州各国の感謝の念は厚く、先ずベルギー国王の招待を始め、英国皇帝、イタリア国王、フランス大統領等の招待を受けた為、佐藤司令官以下我が艦隊の主脳陣が之等の諸国を訪問し大歓迎を受け た。その席上、各国主脳等が異口同音に、日本駆逐艦隊は「地中海の守り神だ」と称賛したとのことである。
斯くして、地中海で活躍した第二特務艦隊は大正八年(一九一九)七月二日、捕獲したドイツ潜水艦七隻を曳 航して目出度く横須賀軍港に凱旋した。
「併し、この様に華々しい反面、ドイツ最強の潜水艦と闘う役割を引受けた我が駆逐艦にも一部損傷があり、戦 死した将兵は上原中佐以下七十八名を数えたのである。思えば、この方々が遙かに故郷の肉親を偲びつつ、連合 国の為に死んで行かれた無念さは察するに余りある。