盆栽・美と調和・清香園銘品陳列集
買取上限価格 9,997円
定価 | 68,000円 |
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著者 | 山田釜次郎・山田登美男 |
出版社 | 誠文堂新光社 |
出版年月 | 昭和57年 |
ISBNコード |
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この商品について
根岸の里と清香園 聞き手:まず最初に,清香園の歴史といいますか,歩んで来られた道からお伺いしたいんですが。
釜次郎:私は清香園二代目初五郎の次男として根岸で生まれたんですが,弟もおりましたし,盆栽のほうを皆がやるって いうと,結局,お得意様も競りこんでいくようになるん で,私のことはね,とにかく,「お前は別に3年ばかり は庭のほうやんな,茶庭のほうをやんな」とこう言われ たの,親父から。ところがそれがね,3年辛抱できなか った。ほうぼうで呼ばれるんで,それで庭のほうは2年 やって、ばったりよしちゃったんだ。それから,盆栽のほうが専門になっちゃって。
聞き手:昭和18年に大宮の盆栽村に入られたそうですが,それまではずっと根岸(東京都台東区)におられたんですか。
釜次郎:いえ,大宮に移る前は奥沢三丁目,今の自由が丘の駅のすぐ近くにいたんです。根岸から奥沢に行ったのは,家 内を持たないうちに分家届をしちゃったんで,親父から 別になって,それで兄貴が亡くなったんで清香園三代め を継いだんです。もともと草花は好きだったし、小学校 の時分から昼間のうちは宿題のできない時代だから(手 伝わされて)宿題をやらせないんだから,柳だって下だ って、きれいになっていたもんなんだ。年中だから、よ くやってきましたよ。盆栽村へ来てからも,「お宅はきれいですね」って、ずいぶん言われる方があるんですよ。 聞き手:明治34年のお生まれと聞きましたが、その当時の彼岸といいますと,どんなところだったんですか、他にね我屋さんが何軒もあったんですか。
釜次郎:私の若い時分には,そうはいなかったね彼岸の付近には。入谷のほうも入れて6~7軒ぐらいかな。縁日ものを作 っているのが多かったんです。盆栽屋でしっかりしてい るものを作っているのは何人もいなかったですね。
根岸というところは,その当時は,まあ,別荘地とい うか,画家とか書家などの文人墨客のほか,歌舞伎役名, 長唄の師匠だとか,大金持ち,まあ,2号さんもあっちこちにいたそういう独得の雰囲気のあるところでしたわ。 美男:文献ていうと大げさですが,たとえば『台東区の歴史』(東京ふるさと文庫6名著出版刊)とか、その他の知書 や折にふれて父から聞いた話では、岡自覚之(天心)中 村不折(住居跡が書道博物館になっている),小堀 (書家),狩野良信(画家)、村上後六(作家)、何真悟O (俳人),芸界では坂東彦三郎,杵屋勝太郎等の,といっ た人達が根岸には住んでいて、文壇の一派には根岸党というのがあったくらいで、維新の混乱期は別にして、 戸時代末期から,上野の山懐の閑寂な田園というか、み ういうところが,今でいう高級住宅街になっていて、 竹の垣根のあるお屋敷が多かった。そういう機頃にウグイスが巣を作る。そんな一角に清香園があったようです。 釜次郎:そうしたウグイスの棲む谷ということで鶯谷と呼ばれるようになったそうですが,清香園も実は、最初は意な (おうたにえん)という屋号だったんですが、近くにチな 園というのがあって紛らわしいので,清香園と改号した。 んですよ。当時, ウメの盆栽もかなり手がけていて,
香というのはウメのことなんです。
聞き手:根岸といいますとその他,御行松とか, オモトでは相差の松というのがありますが。
登美男:盆栽界にも根岸五葉というのがあるんですよ。
釜次郎:これは宮島五葉の実生なんです。それで,オモトのほうなんですが,おもしろい話があるんですよ。根岸には有 名なオモト商の看舎四代目篠常五郎という人がいたんで すが,その人だったかどうかは聞きもらしましたが、と にかく,オモト屋さんから,「人気が出る前の安いうち に買っといたほうがいいよ」といわれたもんで、私の親 父ですが,ザクロで儲かった金そっくりオモト買っちゃ ったんだ。そうしたところがオモトががた落ちしちゃっ たんだ。大暴落。それで,もうこんなのしょうがないからっていうんで,盆栽棚の下へみんな植えちゃった。
登美男:その名残りが今でも一株ぐらい棚下にあるんです。流行のものに手を出しちゃいかんという教えがあるんですよ。 ですから,戦後八つ房のゴヨウマツが大流行しても決し て手を出さなかったのはそこにあるんですよ。