首斬り浅右衛門刀剣押形・上下 福永酔剣
買取上限価格 15,000円
定価 | |
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著者 | 福永酔剣 |
出版社 | 雄山閣 |
出版年月 | 昭和45年 |
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この商品について
試し斬りの歴史
試し斬りの「試し」に、浅右衛門家の記録では、トン様”の字をあてて いる。刀の試し銘にもこれを書いたものがある。様をタメシと読むこ とは、すでに大宝令に見えている。
営繕令曰ク、凡ソ軍器ヲ営造スルニハ、皆須ク様ニ依リ、年月及ビ 工匠 ノ姓名ヲ鍋題セシムベシ(原漢文)
大宝令制定から十四年後、和銅六年(七一五) 五月十四日の詔にも、 諸国から貢物として来る器使について、様の字を用いている。
今六道ノ諸国、器仗ヲ営造スルコト、甚ダ牢固ナラズ。事ニ臨ンデ 何 ソ 用 ヒン。今ヨリ以後、毎年、様ヲ貢シ巡察使ノ出ル日、細カニ校勘ヲ ナ セ ヨ (原漢文)
これらはいずれもタメシとよませてあるので、『本朝鍛冶考』や『刀 要録』では、試し斬りのことと解しているが、そういう意味ではない。 「令義解』にも、「様ト謂ゥハ、形制・法式ナリ」とあるとおり、形式 とか見本とかいう意味である。したがって後世の用法から早合点して、 これらを、試し斬りの初見とするのは当たらない。
試し斬りの初見
中国では古く春秋のころ、庚輿という愛剣家がいた。嗜虐性の男で、 剣を作らせるたびに、人を試し斬りするので、民衆から大いに恐れられ たという(『左氏伝」)。さらに下ると、南朝・北朝と入りまじり、政権争 奪をやっていたころ、安徳王延宗は囚人を斬って、刀の利鈍を試してい たという(『北史))。このころ、わが国にち武烈天皇というサ デ ィ ズ ムの天皇があった。池の水路から流れでてくる人間を待ちうけていて、
三ノテッ持チテ、刺シ殺スコトヲ快」にしたという(『日本書紀』)。 しかし、これは妊婦の腹をさいたと同様に、天皇のサディズムからきた 「快」であって、矛の利鈍を試したものではなかったようである。 「平安朝にくだると、多田満仲のテ鬚切り!! ~膝丸の伝説がある。満 仲が時の名工に命じて作らせた二振りの刀で、罪人を試し斬りさせた。 一振りは類まで、もう一振りは膝まで切って落としたので、前者を「鬚斬り」、後者を、膝丸』と名づけて、源氏の重宝にしたという。これ は『平家物語』の巻頭にあって、古来有名な話であるが、試刀史のうえ からいっても、試刀の初見になるので、注目すべき伝説である。
しかし、この鬚まで切れる利刀を作った刀工について、『平家物語』 には、筑前国三笠郡土山にすむ、異国渡来の刀鍛冶だった、とある。土 山は内山の誤伝であろう。内山は有智山とも書き、太宰府神社の東北二 キロ足らずの所にある。ここには平安期から有智山寺、鎌倉期から少弐 氏の館があったし、刀工・金剛兵衛盛高もそこにフイゴをすえていた。
昔は政治・文化の中心だったから、異国渡来の刀鍛冶もここに住みつい たと見るべきである。
しかし『平家物語』には、肝腎な刀鍛冶の名前は記されていないが、 古剣書でも異説が多い。まず実次説は、吉野期の『永徳銘鑑』を初めと して、足利期の『能阿弥本』『享徳目利書』『文明銘鑑』『長享銘鑑』な どに見えているが、いずれも住所を明示していない。『享徳目利書』に 私いては、八幡太郎義家が阿倍貞任の首を切ったとき、鬚もろとも斬れ たので、頻切りと名づけた、という異説になっている。
発火説は、室町初期に筆写した「観智院本銘尽』に出ているが、これ 法人への認に違いない。
もっとも有力なのは陸奥国住人文寿説である。「平治物語』も久寿説 を誤っているが、斬らせたのは八幡太郎義家となっている。刀剣書としては、鎌倉末期の『鍛冶銘集』を初めとして、室町期の『宇都宮銘鑑』 『能阿弥本』『観智院本銘尽』『文明銘鑑』などに見えているが、『平家 物語』と住所の点で異なるのが気になる。それで江戸期の刀剣書には初 め筑前、のち奥州に移住と、抜け目のない説明をしたものもある。 同じ陸奥国の住人でも、『観智院本銘尽』や 『天文銘鑑』には諷誦 説、『長享目利書』には宝寿説、『観智院本銘尽』『文明銘鑑』には行里説を掲げている。行里は行重の誤記であるが、『享徳目利書』では行 重が作ったのは、「新鬚切り」といって、鬚切りと雌雄になっていたという。
以上のように、試し斬り第一号が諸説紛々であるのは、実物がはやく 亡失したためであって、今となっては、いかんともしがたい 問 題 で ある。