近世禅林墨蹟
買取上限価格 5,000円
定価 | |
---|---|
著者 | |
出版社 | 思文閣出版 |
出版年月 | 昭和54年 |
ISBNコード |
※買取上限価格は、日焼け・汚れ・書込みなどがない状態での価格となります。
また、市場価格や在庫状況などにより変動する場合がございます。
この商品について
近世禅林墨蹟・写真では2冊ですが、買取上限価格は3冊セットでの価格となります。ご注意ください。
江戸時代臨済高僧墨蹟の特色
淡 川 康一
等しく臨済宗であっても、其の残された筆蹟、即ち、墨蹟の点から見れば、妙心寺派に 属する人の筆蹟と、それから、大徳寺派に属する人の筆蹟とでは、そこに一種言う可から ざる風格の違いがあり、従って、斯道愛好家の間にあっても、自と、大徳寺物、妙心寺物 等と云う通語さえ、生ずるに至ったのである。そこで、この差異は、一体、どこから、生 じて来るのかと云うことになるのであるが、其の根本の因縁は、大徳寺派に属する仏家の 墨蹟は、古来、茶方の専ら愛好するところとなって居り、一方、妙心寺派に属する禅家の 筆蹟は、禅思想そのものを思慕する人々の鑑賞するところとなって来たからである。
この様な愛好態度の違いは、 どの辺に、 其の主因があるかと云えば、先ず、 歴史的に は、茶道の祖、利休居士が、大徳寺の古渓和尚と、それから、同じく大徳寺派に属する春 屋和尚とに、参禅し、所謂、茶禅一味を標榜するに至ったことに初まる。それから、茶道 に於いては、伝統や、特に、古例、しきたりを尊重する風習があって、従って斯道先輩の 為した業蹟には、一も二もなく、これを、踏襲することになって居り、為に斯道の鼻祖、利休居士が、 大徳寺の春屋和尚や、 又古渓和尚に参じた歴史的事実が、 因習化して、古来、茶方では、茶席の床頭を飾ざる茶幅は、禅家のものが支配的である限り、大徳寺の和 尚方の筆算を、一も二もなく、珍重愛玩する風習が、それこそ、文字通りに醸成されるに 至ったのである。ここで、筆者は、日本の宗教や、芸能には其の歴史的経過が、古い程、 これに正比例して、 因習が、 力強い伝統を張る様になり、却って、 其の本質何処にあり や、識者をして、戸迷いせしめると云う現状である。元来、特に、京都と云う都市は万事 が因習に凝り固っている処であり、この京都に生れた筆者として、本年一月から、約一箇 月間、アメリカ諸大学で、禅画の講義を依頼され、最近、帰国したばかり、余りにも、因習に支配された日本、特に、京都、それと建国僅かに二百年余、万事が因習に捉われるこ となく、それこそ、文字通りの自由闊達の国風の相違に、唯驚くばかり、この自由な思想 で、 日本文化を検討することが、今や彼地では、 物凄い勢を以て、 進められつつある現 況にも、又一鷲を喫した次第である。このことを前提として、墨蹟の話に戻るが、茶掛として、大徳寺物のみを、賞美する態度は、大いに、 これを、矯正せなければならぬと思う。このことは筆者の様な浅学非才な者が、云々するのなら、大方諸賢に訴えても、唯笑 種に過ぎないのであるが、歴とした先覚が、この矛盾を道破していられるから、次に其の所説を、ここに、引用して見よう。又このことが、墨蹟としての妙心寺の物を知る秘鍵ともなると思われる。それは、雑華院の暘山和尚が、禅家徒弟の教育方針を書き示した「雛僧要訓」と題する冊子で、この本、筆者の如き俗人が、禅家の仕来りを伺い知る好個の参考書で、ここに取り扱っている墨蹟の如きも、元より、禅家の内より迷り出た書画作品の ことであるから、筆者は常に、この本を、手引きとしつつ、鑑賞するのである。
さて、其の一節に曰く、「禅家茶礼ヲ専ラスル事ハ、師弟席ヲ同ゥシテ、和合スルヲ 本意トスルヨリ始レリ、其上茶精神ヲ清シ、睡眠ヲ覚スノ品ナル故、殊更ニ用ュル事ト ナレリ、中古ョリ茶事ヲ楽トナスヨリ多クハ奢リノ基 ト ナレリ、其本意ヲ忘レシ事ナリ、 但シ官家侯家ノ席ヲ設ケ、君臣親シク交ル事杯、好キ事ナリ、僧ノ身トシテ、信施ヲ貴 シ、茶器ヲトトノへ、修道勤学ノ間ヲ空ク、茶事ナドニ過ス事、慎ムベキ事ナリ、故ニ昔月翁和尚東山殿二八好卜答へ、我ガ門徒ニハ、深ク誠シメタマヒシトゾ、今時ニテモ道ニ志シ、学二進4人、、自ラ茶席採ヲ設ケ、楽ミトスル事ハマレ也、俗人ニテハ、先多ハ富 饒ニテ、不才不覚)者、手業ヲ以雅人メカス楽ミ事也、禅家二ハ茶ヲ用ュル事故、幼年ョ リ箇様ノ事、能々弁マへ置ベシ、此土三茶種ヲ弘メシ、千光祖師、明恵上人採、今時茶席 ノ体ヲ御覧有べ、御後悔多カルベシ。」以上、読み来って、殆どが、 茶幅として、 ものさ れると大徳寺物とそれから、真に参禅弁道の為に、書き下される妙心寺物との墨蹟用途の 差異が、側面から、而かも、このことが、却って、有効に、理解されるであろう。
先ず、妙心寺物の近世での筆蹟は何と云っても、愚堂東是禅師であろう。其の筆蹟は、 禅機の迫力、真に打たれるばかりである。師、在山の折、あたかも、妙心開山忌三百年の 斎会が厳修され、其の香語は斯界に於いては、有名なものになって居り、原筆は塔頭の隣 華院にあると聞く。 其の転結で「関山幸いに愚堂の在る有り、 続婚聯芳三百年。」とやっ たところ、 同じく、法会に列って居た大愚宗築和尚から、「一寸待て、大愚も居るぞ。」 と大喝したので、流石の愚堂も、即時、「関山幸いに児孫の在る有り。」と改稿して、目出 度納ったと云う。由来、愚堂・大愚と併称され、蒐集家の間では、愚堂を入手すると、大 惑が欲しくなる、逆に、大愚を買うと、今度は、愚堂が欲しくなると云う有様、大愚の筆 算は、其の名の示す如く、どこかに、おろかしい処があるが、これが、却って怖い。