日本武道全集全7巻
買取上限価格 20,000円
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著者 | 今村嘉雄 |
出版社 | 人物往来社 |
出版年月 | 昭和41年 |
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この商品について
笠置山頂から南し、谷川を渡ると美しい山峡の聚落が展開する。右方山腹に十兵衛杉が聳え、道路を越えた右山腹 に旧家老、小山田氏の旧邸があり、その前方に蓮華ヶ峯が望まれる。現柳生小学校のある小丘は、旧柳生藩一万石の 陣屋址で、そこに至るだらだら坂が有名な正木坂、左方の丘上に芳徳寺の大屋根と、新設の剣禅道場が城郭のごとく望まれる。
街道の左側、清い水間川畔、古風橋の上の竹林の中にある五百坪ばかりの茶畑が、石舟斎館址である。柳生氏数百 年、歴代の住いで、宗厳(石舟斎)もここで生まれ、剣聖上泉 秀綱もここに起居し、但馬守宗矩も、十兵衛三厳るこ の地に生をうけた。
柳生は現在奈良市に含まれ、奈良市街地の東北約十五、六キロのところで、市内とは名のみで、沢庵の書簡などに も散見する「柳生谷」という語がぴったりする山村である。それだけに、そこには、戦国時代から後期封建時代を通 じての歴史が集約されて肌に感じられるものがある。
「柳生へはいるには、奈良方面から、笠置方面から、伊賀方面からというように、いくつものコースがある。もちろ ん、これらの街道は、昔のままのものではない。地形が複雑で、交通の不便な土地ではあるが、京都へも奈良へも、 伊賀、伊勢方面へもさほど遠くない場所だけに、昔からこれらの方面への街道が幾すじも作られていたと考えられる。 今日これらの街道の跡はほとんど消えているが、昔ながらの名残りを止めているところもある。例えば、奈良市街の柳生新陰流の祖となった柳生但馬守宗厳(石舟斎)は永珍から家重、道永、宗家、光家、重永、家厳と続いて八代目柳 である。父美作守家厳の時代から足利末期の列強の抗争に関連し、宗厳、宗矩と三代の間に、筒井、松永、織田、徳 川の四氏と交渉をもち、最後に文禄三年(一五九四)に宗厳が京都の郊外紫竹村の陣所で徳川家康と相会し、子宗矩と ともにその知遇を受けるようになって、柳生家開運のいとぐちが開かれた。
「兵法家としての柳生家は、宗厳の五男宗矩にはじまる江戸柳生家(正しくは大和柳生家)と、宗厳の孫兵庫助利厳(如 雲斎)にはじまる尾州柳生家の二宗家として発展し、別表にみるように現在に至っている。しかし兵法家としては、 和州柳生の場合は宗厳、宗矩、三厳、宗冬の四名、尾州柳生では利厳、利方、厳包の三名が、きわ立って傑出してい て、その全盛時代をきずいたといえよう。したがって『柳生のさと』の著者が、宗厳が家康とはじめて相会した文禄 三年(一五九四)から、厳包(連也斎)が死んだ元禄七年(一六九四)までの一○○年間をもって、柳生家の最盛期であ としているのは正しい。