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極秘日露海戦写真帖・戸高一成 秘蔵日露陸戦写真帖・旅順攻防戦・原剛お譲りいただきました。
原剛
旅順要塞攻略の写真
日露戦争100周年を迎え、各地でシンポジウムなどが開催され、また日露戦争に関する出版物も刊行され日露戦争に対する関心が高まっている。百年を節目に、日露戦争を多角的に見直そうという気運が、日本 ばかりか世界の研究者にも広まっている。
このような気運の中、日露戦争研究の一助となることを期して、本写真帖が刊行されることになった。本 写真帖は、日露戦争前半において攻防の焦点となった旅順要塞の攻略戦に関する写真を中心に収録したものである。
日露戦争に関する写真は、当時、博文館の『日露戦争実記』・『日露戦争画報』などに掲載されたが、その量と質においてこれらを圧倒するのが、陸軍陸地測量部から派遣された大本営付写真班の撮影した写真を刊行した小川一真出版部の『日露戦役写真帖』である。
『日露戰役写真帖』は、当初、第一巻から第四巻まで刊行されたが、途中から各軍ごとに第一軍二巻、第二軍六巻、第三軍八巻、第四軍三巻、鴨緑江軍二巻、樺太軍二巻、合計二四巻が刊行された。これらの写真帖は、大本営付写真班が撮影した写真の中から主要なものを選定して掲載したものである。掲載されなかった
多数の写真は、陸地測量部に保管されていたが、一九四五年八月の終戦時に、原板およびその他の重要書類 とともに焼却・破壊されたものと判断される。
本写真帖に掲載した写真は、乃木神社が保存していたため焼却をまぬがれた、第三軍参謀部蔵「戦地二於テ撮影シタル写真」と題する一二冊の写真帖のう、旅順方面の写真帖七冊分の写真である。これら一二冊 の「第三軍戦地写真帖」(以下このように略称する)は、前述した大本営付写真班が撮影したもので、撮影直 後第三軍司令部参謀部に提出され、参謀部第二課が保管していたが、復員後乃木大将に渡され、乃木大将の 河北乃木家に保管され、さらに乃木神社に移され、現在に至っている。
以下、この写真帖と大本営付写真班について解説する。
大本営付写真班が最初に編成されたのは、一八九四 年に日清戦争が開始された直後であった。陸地測量部 の外谷鉦次郎中尉を班長に、小倉侑司・村山維精陸地測量手ら九名が大本営付写真班として編成され、大山巌大将の第二軍に従って出征した。
日清戦争後、測量手小倉険司はオーストリア・ドイツに留学し、軍用写真の撮影・製版・印刷の技術を習得して一八九九年に帰国し、陸地測量師に昇任して陸軍における写真技術の第一者となった。その後も、毎年秋に実施される天皇統監の陸軍特別大演習には、統航海監部の写真部員として、演習における写真撮影を担当 するなど、戦況撮影の研究錬磨を重ね、技術の向上に 努めていた。
第三軍戦地写真帖
乃木神社に所蔵されている「第三軍戦地写真帖」は、一二冊からなり、第一号から第七号までが旅順方面 の写真で、第八号から第一二号までが奉天方面の写真であり、両方面の写真帖が、前掲の写真のようにそれ ぞれ木箱に納められている。本写真帖には、第一号から第七号までの 順方面の写真から合計三四七枚を掲載した。
これら旅順方面の写真の撮影者は、吉田市太郎・大塚徳三郎・浅井魁一の三人である。奉天方面の写真は、 保坂幸太郎・大塚徳三郎・浅井魁一の三人である。しかし両方面ともその大多数は大塚徳三郎が撮影している。
大塚徳三郎は、ペリーが来航した一八五三年一二月に江戸の神田に生れ、一八八三年三月に東京市芝区の堀内之信に就いて写真術を修業し、一八八五年六月に小川一真に就いて写真術をさらに磨き、米国天文学者トッドの依頼により小川一真とともに二度にわたり皆既日食の撮影をし、一九〇一年七月東京帝国大学の命により小川一真とともに、清国北京宮城の内部を撮影するなど、日本を代表する写真技術をもっていた。
旅順攻略のため新たに第三軍が編成され、大本営付写真班員が増員されることになり、小倉険司班長は、 旧知の小川一真にその要員を依頼、小川は門弟大塚徳三郎と浅井魁一を推薦し、二人は大本営付写真班員と なった。
「第三軍戦地写真帖」の大多数が、一流の写真技術をもった大塚徳三郎によって撮影され、それが現存する ということは、誠にすばらしいことである。
旅順要塞攻略戦は、日本軍が三回にわたる総攻撃によって、約六万人の損害(うち死者約一万五千人)を出し漸く占領するという大苦戦の作戦であり、世界の注目の下に実施された作戦であった。それだけに、他の 作戦に比べ、被写体が豊富であり、撮影者の心を躍動させるものがあった。大塚徳三郎は、まさにこの旅順 要塞攻略戦の撮影者として最適任であったのである。
東京湾要塞と芸予要塞から移設した一八門の二八センチ榴弾砲を中心にした要塞への砲撃戦、坑道を掘って砲台に近付き爆破する坑道戦、さらには二〇三高地の白兵戦、旅順艦隊への砲撃戦、旅順の開城など被写体に恵まれていた。また、要塞攻略戦という戦場が移動しないで固定された限定地域であったので、集中的に撮影でき、しかも被写体の多くが要塞砲台という固定されたものであったため、撮影が比較的容易であった。
このような意味で、「第三軍戦地写真帖」の旅順方面の写真は、戦況写真として極めて貴重な写真史料であ ると云えよう。
大本営付写真班が撮影した第三軍の旅順攻略関係写真は、これまでにいくつか出版されているが、その主 要なものは、前述した小川一真出版部の『日露戰役写真帖』第三軍第一巻~第八巻で、合計二二四枚の写真 が掲載されている。また、酒井修一編『日露戦争写真集』(新人物往来社、一九八七年刊)は、初めて乃木神 社所蔵の「第三軍戦地写真帖」の写真を掲載出版し、そこには一二七枚の旅順方面写真が掲載されている。 その他、大沼十太郎『日露戦史写真帖』上巻に一五一枚、国書刊行会編『写真集日露戦争』に一三九枚、小 沢健志編著『写真明治の戦争』に三〇枚掲載されている。
本写真帖には、先述の通り、旅順方面写真を三四七枚を掲載しており、これまで未公開であった一二三枚が、初めて本写真帖に掲載され、それだけ新鮮味があると考える。
戸高一成
日本軍の攻撃下にある旅順市内の写真について
今年は日露戦争の開戦一○○年である。今回、旅順攻防の激戦を伝える写真が公刊されるに当たり、その 来歴を記しておきたい。前半に紹介される乃木神社所蔵の写真については、別に原剛氏の解説があるので、 ここでは後半の旅順市内で撮影された写真について紹介したい。 日露戦争でも屈指の激戦であり、かつ陸海軍共同作戦であった旅順戦は、戦後も多くの記録を残した。写 真に関しても、すでに多くの写真集に紹介されているが、いずれも 真的に分かりやすい、またドラマ性の あるものに限られ、膨大な枚数が撮影されたにも拘わらず、人の目に触れる写真は限られたものだった。し かし、写真は文書記録の単なる挿絵ではない。写真自体重要な歴史資料なのである。 「写真自体には多くの情報が写し込まれているのであり、一見地味な写真にも撮影されるだけの理由があっ たのである。特にガラス原板(ネガ)を使用し、はなはだ移動性の低かった明治時代のカメラでの撮影は困 難なものであり、かつ一度に持ち運べるネガの枚数も、現在からは想像も出来ないほど少なかったので、勢 い「ここ一番」というシーン以外は撮影しなかったものなのである。今日のように漫然とパチパチ撮影する というようなことは無かったということをまず理解しなければ、当時の写真の貴重さを誤ることになる。
このようななかで、日本側で撮影された写真は比較的多数が発表されてきたが、攻撃を受けた側の様子を 示す写真は現在までほとんど公開されてこなかった。最近になって、ようやくロシアの文書館などから当時 の写真が発表されたが、現在までは、ソースとなるべき写真自体が多くなかったのである。少なくとも戦前 においては、旅順占領直後に日本軍が重要なものを入手し、内部資料としてしまったからではないかと思わ れるのである。
さて、旅順市内での写真であるが、旅順戦の初期から継続的に撮影されていて、日本軍の 砲撃による建築物などの被害について詳細に記録している。また、旅順港内で破壊されてゆくロシア軍艦の様子が映し出されていることは、驚くべき記録といえよう。これらの写真には撮影時期が付記され、これらを検討すること で、ロシア艦隊が、早期に戦力を失っていたことが映像の面から明らかになり、たいへん興味深いものがあ る。なかでも旅順防衛司令官コンドラチェンコが市内視察をする姿、そして日本軍の砲弾によって戦死した 同司令官の葬儀の様子などまで記録されている。また、旅順開城当日の様子は特に興味深いものがある。そ こには、続々と市内に入ってくる日本兵の姿が写されているが、その姿には殺気は無く、万余の戦死者を出 した軍隊の兵士とは思えない落ち着いた様子が伺えるからである。また、カメラマン自体にも何ら日本兵に 対する恐怖感は無く、ごく近くで和やかな空気のなかで撮影が行なわれたことが感じられる。これは、まだ 戦争は兵士の任務であり、一般市民個人は攻撃の対象ではないという意識が定着していた時代の現れなのであろう。
今回発表される写真は、旅順市内で開業していた写真館のロシア人技師グメニュークが自主的に撮影して いたもので、旅順開城後まもなく海軍が纏めて入手したものである。海軍はこれを内部教育用の資料とする ために海軍大学校に移管、海軍大学校は、これに他の関連写真を加えて、これを教育用のスライドとしたの である。今日、原写真の形態は明らかでないが、ほぼ全ての写真が約6センチ×6センチのガラスポジに複 学され、同時に解説用に同じ大きさにプリントされた紙焼印画を貼り付けた冊子が制作された。今回収録し たるのは、この解説用の冊子に添付された印画である。
この冊子は終戦時軍令部参謀(編制班)であった上肥一夫氏(終戦時中佐)が終戦時ご自身の担当であった 艦隊編制関係資料とともに保存していたものである。同氏の話では、ガラスポジと冊子は一緒にあったが、戦後散逸した。とのことであった。この冊子は同氏から保存を託されたが、機会を見て公的施設に移管する ことを考えている。
この冊子の説明部分には、極めて詳細な日時状況が付されているが、これは日本海軍軍令部が編纂した『極 極 明治三十七八年海戦史」、同じくロシア海軍軍令部が編纂した『千九百四、五年露日海戦史』(日本海軍 軍令部訳)からのデータと推定される。これらはいずれも極秘刊行物で、一般には公開されなかったものであ り、極秘資料を配布されていた海軍大学校ならではの資料と言えよう。
先に柏書房から発行された海軍側の極秘写真集『極秘 日露海戦写真帖』と合わせ、日露戦争における重 要な映像資料が陸海ともに公刊されたことになる。いずれの写真も貴重な情報を含み、単に一○○年前の歴 史的事件を偲ぶだけではなく、重要な歴史資料として検討の対象とされることを望んでいる。
(とだか・かずしげ呉市企画部海事歴史科学館担当)
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