民俗信仰・日本の石敢当等入荷いたしました。ジャンルは異なるのですが、珍しい本を2冊紹介させていただきます。
私が石敢當の調査研究に従事するようになってから二十数年になる。私が何故に石敢當にかくも強く関心をもつよ うになったのか、まず、その経緯について触れたい。
私と石敢當との最初の出会いは昭和四十二年八月のことである。当時、私は国務大臣総理府総務長官の事務秘書官 をしていた。大臣のお伴をして初めて沖縄に行った。そのとき、那覇市内で、ふと道路脇に立っている「石敢當」と銘打ってある石碑が目についた。私がお仕えした塚原俊郎大臣は、東京帝国大学文学部社会学科の出身で、戦前、同盟 通信社(現兵同通信社,時事通信社)の記者をされ、戦後、代議士になられた、庶民の生活には特に強い関心をもって いる方だった。私は、これはあとできっと御下問があると思ったので、ホテルに戻るや早速フロントの人に石碑のこ とを尋ねたところ、あれは「いしがんとう」といって沖縄には昔からある中国伝来の魔除けである、と教えられた。 案の定、夕食後、大臣から「秘書官、今日、昼間、車の中から道路ばたに奇妙な石碑が立っているのを見たが、気が ついたか」と問われた。実はフロントの人に聞いたのですが、これこれこういうもののようです、と答えるや、大臣、「沖縄には珍しい慣習があるなあ。政治も行政も住民の生活・文化をよく知っていないと血の通ったことはできない」と言う。この言葉がきっかけで、石敢當にひかれ、沖縄行政に没頭するようになったのである。
その後、私は沖縄の本土復帰をはさんで三年半、沖縄関係の部局の業務に就き、さらに昭和五十一年から二年半、 外構現地の沖縄開発庁沖縄総合事務局長をした。局長在任中は、沖縄の離島のかかえるそれぞれの課題を行政の面で 解決するべく、その有人離島四十四のすべてを訪れた。新聞記者は私のことを「離島局長」と呼んだ。私は離島をめぐりながら、仕事が終ると夕闇せまるころ、島内の石敢當のいくつかを探訪した。獅子を上部に彫った石敢當もあっ た。シャコ貝を上にのせた石敢當もあった。石垣市の博物館には乾隆年間(一七三六~一七九五)造立の風化の進んでいる茶褐色の琉球石灰岩の「泰山石敢當」もあった。与那国島・波照間島にもあった。宮古島にも石敢當が多かった。
かくて石敢當に魅入られた私は、沖縄の勤務を終えて帰京するとき、那覇市内の石材店で小さな琉球石灰岩の石敢當を購入、わが家の塀の一角にはめ込み、以来今日まで二十六年、朝な夕な、これを眺めている。
私は、この十年間、所用で毎年数回沖縄を訪れている。行くたびに新しい石敢當を見つけている。中には古いもの もある。鬼の文字の北斗七星が付刻されているもの、以字点が上刻されているものなど、最近見つけたのである。
離島の人から珍しい石敢當の写真が送られてくることもある。また、この二十年間、私は本土各地にある石敢當探訪を続けている。しかし、全国のすべての石敢當を踏査することは不可能である。幸い、各地に年来の石敢當同好の士がいて情報を送って下さり、石敢當所在の市町村の教育委員会の文化財担当の方も私の依頼に親切に対応して下さる。 これらの人々のおかげで本稿の「第一章 わが国における石敢當の現状」をまとめることができた。ごく最近でも佐 賀県に古い石敢當二基が見つかっている。
私は石敢當の由来についても関心があり、いくつかの辞典や事典に当たり、その故事来歴を調べてみた。その結果、 私は石敢當を次のように理解した。
石敢當というのは、不祥を禁圧するため、あるいは魔除けとして、橋路の要衝、人家の門口などに建てる石碑 で、一説には、中国の五代晋に石敢當という勇士がいて、その名から由来している。沖縄に最も多く、ついで九 州の南部に多く、本州のいくつかの県にも散在する。
とくに、五代晋の勇士説は一說どころか、本命の説と信じていた。史料の原文に全く当たることもなく、思えば浅はかなことであった。私のこのような蒙を啓いてくれたのは五代晋の勇士説を資料に基づき否定した中国宗教史研究者の窪徳忠の論文である。即ち、「石敢当」「石敢当からみた中国・沖縄・奄美」などである。
しかし五代晋の勇士説を否定した先達が、窪以外に先の大戦中に一人、幕末に一人いたのである。 昭和十八年に、在野の古代史研究者の飯田嘉一郎が、論文「石敢當の名義」の中で、史料をあげ明快に五代の力士説を否定している。
昭和四十八年六月から一年四か月、朝日新聞に連載された松本清張の「火の回路」という長編の力作がある。松本 は飛鳥にある酒船石、猿石、益田岩船などの石造物を飛鳥時代に渡来したペルシャ人が遺したものと考えて、女性研 究者が学術雑誌に発表する論文と、それを批判し指導する在野の学者の手紙を主な構成とした、いわば「論文」が主 人公の異色の作品である。松本によると、この在野の学者は藪田嘉一郎をイメージしたものという。また飯田嘉一郎 の実名とその所説もでてくる。藪田は古代研究で数々の論文を発表、時代考証の専門家であった。昭和五十一年(一 九七八)七十一歳で亡くなった。その遺稿「経塚の起源』に「起源を論じる効能」という項があり、「およそ古代の 事物の起源に明確なものは殆どないといってよい。……起源を論じることは、起源が明確に分からなくてもよい。論 じることは、また仮定することに意義があるのである。……起源を尋ねることは即ち事物の体系を立て、調えること である。……起源論は歴史的事実を体系的に把握するために必要なのである。……一つの起源論が若し正しくないと 分かったなれば、他の正しいそうな起源論を模索すればよいのである」と記述している。私はこの起源論に励まされて、「姓源珠援」の原文を見つけ、石敢當の起源を五代晋の勇士とする誤説の発信源とされた同書の汚名をすすいだのである。いうなればこのことは同書を非難した二人の先達・藪田嘉一郎と窪徳忠の所説に異を唱えることになった。 あ冥府の一角で、おそらく藪田は苦笑いしていることであろう。
「従軍慰安婦」にさせられ、心身にわたり癒し難い傷を負われたすべての方々に対して、政府と国民が協力して、 お詫びと反省に立つ国民的な償いや医療、福祉の事業を進める「女性のためのアジア平和国民基金」がスタートして から、はや二年になろうとしています。この間基金は国民の皆さまからのご支持と拠金をえて、フィリピン、韓国、 台湾で償いの事業を開始いたしました。高齢の方々に対するお詫びと国民的償いの事業ですので、より多くの方々に 受けとめていただけるように一層の努力を払っていく所存です。
お詫びと償いの事業は過去の歴史を直視し、これを正しく後世に伝える努力と切り離すことができません。「慰安婦」 問題の真実を明らかにし、歴史の教訓とするためには、資料の発掘、調査、研究が必要です。 日本政府は、一九九一年(平成三年)一二月以後、いわゆる従軍慰安婦問題についての本格的調査を行い、一九九二年七月六日、一九九三年八月四日にそれぞれ調査結果を発表しました。その後も発見された資料がそのつど発表さ れました。
調査にあたっては調査対象を国外に広げるとともに、元「慰安婦」を含む関係者に対する聞きとり調査も行いまし た。各省庁や米国国立公文書館などから発見された資料は二六○件をこえています。
この政府調査によって発見された資料は、今日「従軍慰安婦」問題を考えるさいの基本的な資料です。
基金では、このたび政府が調査した資料をオリジナル・コピーのかたちで復刻し、永久に保存するとともに、この 問題の研究に関心をもつ内外のすべての人に公開することにいたしました。あえて、発掘された資料を一つ残らず、 もとの形のままに刊行するところに、このような歴史を二度とくりかえさないという国民的決意があらわれているこ とを、汲み取っていただきますように願ってやみません。この資料を共通の財産として、こののちさらに明らかに れる新たな資料の分析に進んで下さるように希望いたします。
基金としては、現在「慰安婦」関係資料委員会を設置し、五ヵ年の計画で、内外の諸機関よりあらたな資料を獲想 すべく努力しております。その成果も引き続き、公刊してまいる所存です。
一九九七年三月
財団法人女性のためのアジア平和国民基金