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明治天皇六大巡幸に関する図録は以前も紹介させていただきましたが、今回は巻末に九州西国の写真帖ならびに東北北海道の写真帖が収録されており、興味深い資料です。
明治天皇百年祭を迎えた本年、社団法人霞会館との共催により、第一回「明治天皇六大巡幸」展を開催できますことは、洵に意義深く慶びに堪えません。
本展では、明治天皇の六大巡幸の内、明治五年に行われた九州・西国巡幸、明治九年の 東北・北海道巡幸、明治十一年の北陸・東海道巡幸を初回として取り上げ展示致します。 「明治元年、五箇條の御誓文が布告され、明治天皇は新時代の国是を天神地祇に誓い、国 民の先頭に立つとの強い決意を示されました。国民は天皇のもとに心を一つにし、独立自 尊の気概を抱きつつ、近代日本の飛躍的な発展に邁進することになります。
天皇のご巡幸を全国各地で熱烈に奉迎した国民は、明治日本の躍進に全力を尽くし、ここに、君民一体の美しい国柄が醸成されたのです。明治天皇の全国ご巡幸の御心は各地で のエピソードに詳述されておりますが、昭和天皇や今上陛下のご巡幸や被災地へのご慰問 などにも継承され、洵に有り難き極みと存じます。
この展覧会を通じ、六大巡幸に始まる明治天皇の国民愛撫の大御心を各地の天覧品とと もに辿りながら、明治の御代の天皇と国民との深く温かな絆を知る縁となれば幸いです。 本展覧会開催にあたり、貴重な資料をご出品戴きました宮内庁はじめ所蔵者各位、また ご協力ご支援を賜りました霞会館会員並びに関係各位に厚く御礼を申し上げます。
平成二十四年十月十三日
明治神宮 宮司 中島 精太郎
第一回の巡幸は明治五年(一八七二)五月二十三日から同年 七月十一にかけて行われた。
前年には廃藩置県が断行され、岩倉使節団が欧米に向け横 演を出港するなど明治新政府による天皇中心の近代国家創成 が急務とされていた。この年三月には最初の博覧会が東京で 開かれ、六月郵便報知新聞の発刊、八月学制領布、九月京浜 間の鉄道開通式、十一月紀元節の制定と目まぐるしく移り変 り巷では開化鍋が人気を呼び、婦人の乗馬が流行した。翌年には征韓論を主張した西鄉隆盛は朝議に敗れて下野した。
さてこの巡幸の特筆すべきは全行程が海路による艦隊行動にあった。艦隊は旗艦龍 驤・孟春・雲揚・第二丁卯・日進・鳳翔・ 筑波・春日の八艦から成り、他に輸送船として大阪丸と有功丸が随伴した。艦隊の往路は五月二十三日品川を抜錨、三浦 半島金田湾から伊勢湾口の二十五日鳥羽へ、そこで天皇は伊 勢神宮に参拝された。紀伊半島を廻り熊野灘、紀伊水道を抜 け、十八日大阪着、六月七日大阪から神戸、瀬戸内海を西へ 輸ノ浦を経て十日下関、玄界灘から壱岐の海峡を抜け、十四 日長崎、熊本を南下し二十二日鹿児島錦江湾に入港。帰路は 七月は鹿児島出港、日向灘を北上、豊海水道から瀬戸内海 に入り、西日丸亀、六日神戸、往路を逆にたどり十一日金田海に投海、人は横浜に上陸され同所より仮営業中の汽車で品川に着かれた。
明治天皇は、明治九年(一八七六)六月二日から七月二十一 日まで五十日間にわたり東北・北海道を巡幸された。征韓論で西鄉隆盛らが職を辞した明治六年の政変などで大幅に遅れ ての実施であった。
明治九年の巡幸から陸路主体の移動になった。東京を発し、 埼玉、茨城、栃木、福島、宮城、岩手、青森まで奥州街道を 主に進まれた。そして、青森から函館、函館から横浜までは 海路をとり、明治丸にご乗艦された。右大臣岩倉具視、内閣 顧問木戸孝允、宮内卿德大寺實則、侍従長東久世通禧ほか総 勢二百三十名ほどが随行した。
明治六年に断髪された天皇は、正服をご着用になり、西洋 式馬車で騎兵を従え進まれた。旅程の大半を馬車に揺られ、 川や急峻な道は板輿で通過された。県庁・裁判所・学校・博 物場・寺社・名所などを視察されたが、こうした視察地・行在所などの決定は、この巡幸から実施された大久保利通を長とする先発隊の事前調査によるところが大きい。
また、日光、松島で補助金を下賜されるなど、巡幸を契機 とした皇室による文化財保護への動きや、初めて随行が許さ れた新聞記者により、巡幸の様子が全国へ広まったことも特徴である。
明治十一年(一八七八)。それは、第一回の巡幸に供奉した参議西郷隆盛ら不平士族による前年の西南戦争の記憶も新しいなか、五月に前二回の巡幸を主導した大久保利通が暗殺さ れた紀尾井坂の変、八月に近衛砲兵隊が反乱した竹橋事件が 相次いで起き、政局いまだ不安定な時期であった。
そのような状況下、八月三十日から十一月九日まで七十二 日間の長きにわたり、北陸・東海道の陸路による巡幸が行われた。東京から埼玉、群馬、長野、新潟、富山、石川、福井、滋賀、京都へ。ふたたび滋賀、岐阜、愛知、静岡、神奈川を経て東京へ還辛する大規模なものであった。
本巡幸の特色は、前二回の巡幸を踏まえつつ、巡幸実施の システムが整備されたことである。先発隊が事前に収集した 情報が巡幸の経路などに反映された。
右大臣岩倉其視や参議大隈重信、参議井上馨、陸軍少 由設、内務大書記官品川彌二郎、宮内卿德大寺實則らが随行した。警備にも力が入れられ、巡幸の総人数はおよそ七百名ともういわれる
暦の世界へ
このたび新宿歴史博物館では、先人の知恵の結晶である暦の歴史や文化を紹介する企画 展「暦の世界へ」を開催します。
なぜ新宿歴史博物館で暦の展示会なのか…。実は新宿区域は、暦の歴史や文化に大変 ゆかりのある地域なのです。
江戸時代、暦は天文方という幕府の役人が天体観測のデータをもとに編暦しました。暦 と天体観測は密接な関係をもちますが、江戸時代の一時期、牛込に天文台が設けられ天体 観測が行われました。
また、暦の記載事項を省略した略暦の中には、大小暦という判じを楽しむ暦がありまし た。この大小暦流行の火付け役は大久保巨川という旗本でしたが、その巨川の屋敷があっ たのが牛込でした。つまり牛込は、大小暦流行の発祥地にあたるのです。
明治5年12月3日(明治6(1873)年1月1日)、明治政府は太陰太陽暦(天保暦)か ら太陽暦への改暦を断行しますが、この改暦の立役者の一人に政府官吏であった塚本明毅 がいます。塚本は明治18(1885)年に没しますが、彼は新宿2丁目にある成覚寺に眠って います。
このように、新宿区域は暦と大変関係のある地域だといえます。そこで本展示会では、 新宿区域と暦の関係を紹介し、また、江戸時代以降の暦の歴史や文化についても取り上げ ることで、皆様を「暦の世界へ」いざないます。本展示会を通じて皆様が暦に関心を持ち、 暦の世界を探求するきっかけになれば幸いです。
本展示会は、財団法人新宿区生涯学習財団評議員及び新宿区文化財保護審議会会長を兼任されている、女子美術大学名誉教授・岡田芳朗先生の暦コレクションをもとに企画・構 成されました。暦研究の第一人者である岡田先生の協力がなければ展示会は成り立ちませ んでした。この場をかりて心より御礼申上げます。
また、本展示会を開催するにあたって、貴重な資料の使用を許可していただいた関係諸 機関の皆様、及びご協力をいただいた関係各位、並びに展示会の後援をして下さった暦の 会の皆様にも厚く御礼申上げます。
こちらは図録ではありませんが、上記暦の世界へ紹介しましたので、たまたま入手した暦の書籍を紹介いたします。
一般に年代学を定義づけると、日本のばあい、律令時代の陰陽寮の職掌である、天文・暦・陰陽・漏刻に関する研 究である。本来、古代天文学の分類に属し、天文・暦の記事の年次を確認することが目的で、加えて陰陽の記事はさ らに対象を裏付ける。具注暦のばあいは、三・四日の断簡でも年次を比定できる。『唐六典』によれば、天文・暦の分 野の官庁は太史局で、式占は太ト署に属した。『日本書記』の天武天皇元年六月の条に、天皇「親ら式を兼りて、占ひ て日はく」(式占)とあり、同四年正月には陰陽寮、同十三年二月には陰陽師に「都つくるべき地を視占しめたまふ」 とみえ、持統天皇六年二月の条には「陰陽博士沙門法蔵(百済僧)・道基に銀二十両を賜ふ」とあるので、日本の陰陽 家は百済に倣った役所であろう。唐代の太卜署の博士は太ト正という称号である。
ところで、本書に掲載された論文を一言で紹介すると、大谷光男は『漢書』王莽伝の十二直について論じたが、中 国の正史で最古の『漢書』にみえる暦注の初見は十二直であり、二十四気を掲げた暦書の出版が待たれる。
湯浅吉美氏はさきに慶応義塾図書館蔵の『享徳四年具注暦』の紙背と、「因明論抄」の考察を発表されたが、今回は 同館蔵の「嘉元四年具注暦」と「元亀四年仮名暦』の紹介である。書誌研究者には多くの示唆を与える点で薦めたい。 山下克明氏の「陰陽博士安倍孝重勘進記の復元」は、氏の研究を通じて主体をなすもので、陰陽道史に大きく貢献 しょう。
小坂眞二氏はさきに「壬生家文書」中の六壬式の年代比定という論文を発表されたが、今回は嫁娶の吉日として重視された「陰陽不將日について」の論考である。その初見は前漢に遡るという。
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