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五百羅漢・幕末の絵師・狩野一信等各種図録入荷いたしました。中からいくつか気になったものを紹介させていただきます。
平成23年(2011)は、浄土宗の開祖・法然上人(1133 ~ 1212)が遷化されてから八百年を迎える節目の年にあたります。その年に特別展「五百羅漢―増上寺秘蔵の仏画 幕末の絵師 狩野一信」を開催いたします。増上寺の寺宝は、明治初期の廃仏毀釈による疲弊、第二次世界大戦の空襲による壊滅的打撃を経ながらも、大切に守らてきました。しかし、その多くは公開される機会が乏しく、とりわけ今回一挙公開される狩野一信筆「五百羅漢図」全百幅が寺外で展示されることはありませんでした。日本美術史上でもきわめて重要な意義をもつ「五百羅漢図」の全貌をこの機会にご覧いただきたく存じます。
最後になりましたが、この展覧会を開催するにあたり、貴重な作品を出品くださいました博物館や所蔵家ご協賛いただきましたカラーキネティクス・ジャパン、三菱レイヨン、リリカラ各社に深く感謝の意を表しますとともに、関係者の皆様に心より御礼を申し上げます。
はじめに
東京、港区芝の増上寺(挿図 1)に秘蔵されてきた壮大な「五百羅漢図」全百幅。百五十年近く前、幕末の 絵師・狩野一信(一八一六~六三)が四十八歳(数え年)で没するまでに、約十年の歳月を費やして九十六幅ま でを描き、残り四幅を妻・妙安(俗名・逸見やす)、弟子・逸見一純らが補作して、文久三年(一八六三)に奉納 されたものである。
その後、明治初期の廃仏毀釈の嵐も、第二次大戦の東京大空襲による罹災も奇跡的に免 れていまに伝わるこの知られざる凄まじい絵を、ともかくまずは多くの人々に、いきなりすべて見ていただ きたい、そんな一心で企画したこの展覧会は、かなり破天荒な試みである。一般の方々はもちろん、日本美術史の学者も、美術館、博物館の学芸員も、さらに所蔵される増上寺の方々ですら、少なくとも戦後においてはほとんど選もその全貌を見たことがない「五百羅漢図」全百幅を、関連資料とともに一挙初公開する展覧会なのだから。なにせ、表具も含めれば縦三メートルを優に超す身の丈に余る大幅。増上寺内ですら、掛ける場所はなかなかない。かねてより注目してきた私自身、百幅すべてを見る機会を得たのは、ようやく二〇〇八年 のことだった。 「そんな展覧会を開催したいと強く念じることとなった機縁は、遡れば、一冊の書物に集約される。いまか ら四半世紀以上前、昭和五十八年(一九八三)に港区教育委員会の調査報告書として刊行された、非売品の『狩野一信筆「五百羅漢図」』(挿図 2)である。
昭和五十四年(一九七九)度に港区指定文化財となった「五百羅漢図」に関する調査研究は、港区文化財保 護審議委員だった河合正朝氏(当時慶應義塾大学助教授)による指導のもと、数年をかけて進められた。その 成果としてこの報告書(以下〈河合報告〉と略称する)が刊行され、私を含むごく一握りの当時の若い研究者 たちが注目することとなったのだった。しかし、非売品の報告書であるゆえ、多くの人の目に触れたわけで はない。また、カラー図版はわずか六幅で、モノクロでは全幅が収録されるものの、その全貌を確かに知る ことは難しかったのである。だがその評判は、ゆっくり、じわじわと浸透し、以後、意欲的な学芸員による 近世絵画の企画展に、百幅のうちほんの数幅が何度か出品されるという散発的な状況が長く続いた。 そして、画像情報が瞬時に届くインターネットが普及したここ十数年ほどの間に注目度は飛躍的に高まり、展覧会や出版などを通じて、専門家以外の日本美術フリークたちからも熱い視線が注がれるようになった。
いまでは、さまざまなブログ、ツイッターなどを通じて、一信、そして「五百羅漢図」に関する情報が飛び交っ ている。かつて非売品の報告書を図書館でコピーした私としては少々複雑な気分だが、この凄い絵の画像に 多くの人が容易にアクセスできるようになったのは、基本的に喜ばしい ことだと思う。二〇一一年春、そん な経緯をたどってきた「五百羅漢図」が、江戸東京博物館でようやくその全貌を現すこととなるのである。
本展の展示構成について
通常、寺院に所蔵される作品、とくに尊像である仏画が展覧会に出品される際には、さまざまな展示制限 がかかることが多い。国宝、重要文化財の場合は基本的に二週間のみ。美術館、博物館に寄託され、数年に 一度だけ常設展示に出品される以外は、よほどの特別展の折か、年に一度の曝涼(虫干し) の日にのみ寺院 に里帰りして公開される、という事例がほとんどである。数十年に一度のご開帳、あるいは秘仏としてまっ たく公開されていない場合も多い。
だが、この展覧会ではまったく異例に、全百幅を全期間、展示替えなしで、しかもこのためだけに設えら れたケースでインスタレーション的に展示して、増上寺が所蔵する「五百羅漢図」(図版M1~M) のすべてをお 見せする。そしてさらに、やはり寺外では初公開となる成田山新勝寺所蔵の「釈迦文殊普賢四天王十大弟子図」(図版123)、「十六羅漢図」(図版124)、増上寺と同じく港区内の浄土宗寺院である大松寺、大信寺所蔵の「五百羅漢図下絵」(図版106・107・109・110・112・113・115・116・118・119・121・122)、東京国立博物館に所蔵される増上寺本 とほぼ同図様の「五百羅漢図」(図版101~105・108・111・114・117・120)、一信の遺族である逸見家に所蔵される日記、 下絵、手控えなどの関連資料(図版』)のいくつかを展示する。こういうかたちでの一挙公開は、私自身が 強く望んだことであり、また、増上寺の皆様をはじめとする関係者の方々による、浄土宗開祖・法然上人八 百年御忌に際して、一信渾身の事績を顕彰したい という強い思 い の末に、ようやく実現したことなのである。
「五百羅漢図」を対となる二幅どとに独立ケースで林立させたり、観客が絵を見る立ち位置をぐるりと取り囲 む円形のスペースをつくったり、増上寺本と他の下絵、模本などの関連作品とをじっくり比較対照できるセク ションを設けるなど、インパクトある展示構成を目指している。
多くの観客のみなさんは、展覧会を見終わった後、この図録を手にとられるだろう。どうぞ、ほとんど予 備知識なく実物をいきなりご覧になった後、記憶を整理するために活用していただきたい。「五百羅漢図」第二十一幅~三十幅における地獄の情景の過剰で執拗な描写、第四十九幅、五十幅のなんとも陰鬱な光の表現、 第五十三幅の首吊り死体のあまりにもリアルな描写(挿図3)などを目の当たりにして、ぐったりと疲れた方 も多いのではないか。あるいは、第三十幅の自ら腹を割 い て釈迦を出現させる羅漢、第五十九幅の大蛇の口 の中から暢気に様子をうかがう羅漢(挿図 4)など、思 い がけずユーモラスな表現に笑った方もいらっしゃる だろう。あるいは第七十幅あたりから、加速度的にその筆力が衰えていき、おそらく一信自身がこの絵に関与する比率が下がって、絵が生彩を失っていくありさまも直視していただいたと思う。
「五百羅漢図」すべてをくまなくご覧になって、一信が三十歳代後半から約十年の歳月を費やした命がけの仕事ぶりに瞠目、共感されるか、あるいはその晩年の、なんとも情けなくなるような筆力の衰えに対して 批難されるか、同情されるか。それはどちらでもいい。観客のみなさんが、それぞれ判断されればよい。しかし、いずれにせよ、この「五百羅漢図」を描いた絵師・狩野一信のことをさらに知りた い と思われる方は多いはずだ。
増上寺のご厚意により、ここ三年ほどの間に全百幅を何度も通覧する機会を得た私には、そんな観客の方々に対して、狩野一信の履歴と美術史上の位置づけ、幕末におけるこの壮大な「五百羅漢図プロジェクト」の実態、そしてさらにこの展覧会が実現に至った経緯について、ここで基本的な情報を伝えておく責務がある。
Greetings from the Organizers
The year Heisei 23 (2011) marks the eight hundredth anniversary of the passing of St. Hõnen (1133–1212), the founder of the Pure Land Sect of Buddhism, and provides the occasion for the special exhibition “The Five Hundred Arhats by Kano Kazunobu”. Kazunobu’s paintings were carefully guarded and preserved at Zöjõji during the persecution of Buddhism in the Meiji period (1868–1912), when the temple lost many of its treasures, as well as during the devastating air raids of World War II. The Five Hundred Arhats were seldom displayed, and despite their art historical significance indeed the entire set of one hundred paintings has never before been exhibited outside the temple. We invite viewers to savor the experience of beholding the Five Hundred Arhats in their entirety on this unprecedented occasion.
Finally, we would like to express our sincere gratitude to the museums and individuals who generously agreed to lend their precious works of art to this exhibition, as well as to Color Kinetics Japan Incorporated, MITSUBISHI RAYON CO., LTD., Lilycolor Co., Ltd., and the individuals without whose kind cooperation and assistance the exhibition would not have been possible.
Tokyo Metropolitan Foundation for History and Culture, Edo-Tokyo Museum Daihonzan Zöjõji Nikkei Inc.
第一一九代光格天皇御生母大江磐代君顕彰展 : 大江磐代君没後二百年に寄せて
延享元(一七四四)年、倉吉に生まれ幼いころ京都へのぼって閑院宮家に奉公し、五人の王子の母となった大 江磐代君。聡明で淑徳、勉学を好くし、歌道にすぐれたと伝わります。
大江磐代君の長子祐宮は、後桃園天皇の崩御により、九歳にして皇統を嗣ぐこととなり天皇となられました。 第一二九代 光格天皇です。天皇在位三十九年、譲位された後、二十三年にわたって院政をしかれた光格天皇は、 朝廷の権威回復に努めた天皇でした。長らく途絶えていた儀式や神事などを再興し、御所の復古的再建も果たさ れるなど王政復古、明治維新への道筋をつけた天皇といえるでしょう。
光格天皇の事蹟は、多くの記録から明らかですが、御生母大江磐代君の暮らしぶりや人となりを語る資料は少なく、わずかに母や親族らに宛てた書状から心情を察するしかありません。その書状には、郷里倉吉を懐かしみ、父母の健康や暮らし向きをしきりに気遣う娘の篤い孝行心に溢れています。また、ゆかりの寺院に伝わる 日記からは、実子への慈しみの心も伝わってきます。
いつの時代でも、どんな境遇のなかでも、決して変わることのない親と子の情愛。娘として母としての思いを 常に持ち続けておられたのが、大江磐代君の実像だったのではないでしょうか。 –
明治時代になって、光格天皇の御生母が大江磐代君であることが公にされ、地元倉吉でも顕彰活動が始まりま す。伝記が刊行され、誕生之地碑や神社の建立も行われて、多くの市民から敬愛される郷土の先人となられました。 しかし、時代の推移とともに、市民の記憶からその存在が少しずつ遠のいていきました。こうしたなか、昨年十月には、今上天皇皇后両陛下の当市への行幸啓があり、当館にも御視察を賜りました。当館からほど近い、大江磐代君が祀られている大江神社もご説明させていただきました。この両陛下の行幸啓をきっかけとして市民のな かから大江磐代君顕彰の機運が盛り上がりました。そして今年は、お亡くなりになって二百年目の節目の年にあ たることから、当市として顕彰展を開催することとなりました。
この顕彰展では、大江磐代君の生涯を辿り、光格天皇の事蹟と明治時代以降の顕彰活動を取り上げます。また、 倉吉への行幸啓の様子も記録集や写真パネルで紹介します。本展が、大江磐代君を知っていただく契機となり、 後世に語り継がれる郷土の誇りとして、多くの市民の心に刻まれることを念願します。 –
最後になりましたが、本展覧会開催にむけて、貴重な御品をご出品いただきました関係者の皆様、そして数多くの貴重な情報をお寄せいただきました方々に対し心より御礼申し上げます。
江戸の新興宗教・文京の富士講
江戸時代も後期、19世紀の初め、江戸一帯では富士山に対する信仰が急速に広まり 富士講とよばれる信仰組織が数多く成立しました。幕府や既成教団からの度重なる弾圧 にもかかわらず、富士講は「江戸八百八講、講中八万人」といわれるまでに発展し、日 本近代の民衆宗教の源流を形作ってきたのです。
文京区には、中世以来の富士信仰の拠点である駒込富士神社、中興の祖といわれる食 行身禄墓(海蔵寺)、音羽富士塚(護国寺)、白山富士塚(白山神社)など、都内有数の 富士信仰史跡があり、富士講関係資料の宝庫となっています。
今回の特別展では、中世に始まり近世に再興された新興宗教としての富士信仰を取り 上げ、既に組織の消滅した富士講の盛衰を追いながら、文京に生きた人々、ひいては日 本の近代を描きだすこととしました。また、特に江戸の民衆を新興宗教に駆り立てたも のは何か、当時の社会状況と身禄の思想などから多角的に考えていきます。今回の展示 を通して、一人ひとりが、新興宗教への傾斜にゆれる現代の日本を考える手掛かりとしていただければ幸いです。
最後になりましたが、特別展開催にあたり、快く調査のご許可をいただき、また史・ 資料をご提供、ご教示いただいた方々に対し感謝の意を表します。
1995年(平成7) 10月
文京区教育委員会 文京ふるさと歴史館
こちらは盆栽の図録になります。松平家に生きる珠玉の名品・小品盆栽。限定版ですので最近は流通部数も以前より少なくなってきました。編集は日本盆栽協会です。
日本盆栽協会が、社団法人として発足以来、ことしで十周年を迎えた。記念事業の構想の中で、第一に取り上げられたのが、この「松平家に生きる小品盆栽」の刊行であった。
松平頼寿、昭子夫妻が、明治・大正・昭和の三代にわたる七十年に近い長い年月を、ひたすら慈しみ育てたこれら「小品盆栽」は、その数も多く、名実ともに現代盆栽界の至宝といえる存在である。
当時、盆栽の中では未開拓ともいえた「小品」を、頼寿氏は一つのジャンルとして確立させ、盆栽の雛型的な言葉で扱われた豆栽の呼び名を、堂々「小品盆栽」として今日その芸術的、技術的価値を一変させたのは、松平夫妻の功績といってはばからない。
当協会が、年間の二大事業として長年開催してきた国風盆栽展や名品展をはじめ、盆栽の名品の集まるところには必ず松平家の「小品」が席を飾って話題を呼んだものである。
年毎に変る出品小品のあでやか に いきいきと、緑に、花に、実に、紅葉に、小さな鉢の小さな木が、神秘なまでの生命力を盛り上げてみせた季節の色どりの素晴らしさに、圧倒された人たちも多かったはず
である。盆栽づくりは、大きな鉢の中でも立派に培養していくには並々なら ぬむずかしさがある。
日本盆栽協会の前身であった国風盆栽会の初代会長(昭和九年)を引き受けられ、盆栽界のために精魂こめて尽力され、今日の基礎を築かれたのである。
頼寿氏亡きあと、遺愛の小品盆栽は夫君の思い出とともに昭子夫人の手に受け継がれ、それから三十年。
大切に、思い込めた夫人の慈しみの手の中で、松平家の小品盆栽は今日も見事に生き続けている のである。
熱海に過される夫人の日課は、盆栽にはじまり、盆栽に終る。
九十一歳という高齢にもかかわらず、早朝からタ刻までの何回にも及ぶ灌水を、ご自身の手ですませる。
暑さ寒さから風の強さ にまで心を配り、葉にさわっただけでその木の求める声を聞き分けられる様子である。
わが身の一部分のように知り尽し、隙間なく深い昭子夫人の愛の思いやりが、松平家の小品を今日世に稀のものとして仕上げた原動力であろう。しかし、名品盆栽とうたわれても、植物である限り、そのいのちに永遠性はないのである。
絵画も彫刻も、名品となれば作品も人の名も後世に伝え残されるが、盆栽については、たとえ何百年のいのちを全うした名品であっても、これまで歴史的記録のほとんどないのが実情であった。
当協会は「松平家に生きる小品盆栽」の数々が、広く一般愛好家の小品研究への参考ともなり、また、盆栽の歴史上に輝かしい一つの記録として刊行の運びとなったのである。
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