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日本古武道研究の宝庫・藤田西湖文庫展

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担当スタッフより

飯綱信仰・羽ばたく飯綱三郎天狗 なぜか本文中に忍術の里甲賀の文字が出てきますが、その文章は甲賀市教育委員会文化財保護課によって書かれています。天狗に忍者ですので極めて外人さん受けしそうなテーマです。

飯綱信仰・羽ばたく飯綱三郎天狗
忍術の里甲賀の飯綱権現

忍術の里甲賀の飯綱権現
長峰透

近江の国、甲賀は伊賀と並んで忍術の里として知られているが、その甲賀にも 飯綱権現が祀られている。飯綱という遠く信州を始原とするこの特異な神が甲賀にあるのも、そもそもこの地が修験道の聖地として栄えていたということと無関 係ではあるまい。甲賀市の中央部にそびえる飯道山は、近江屈指の修験霊場であり、当山派修験三十六先達寺院としてその支配は各地に及んでいた。江戸時代、この地を訪れた松尾芭蕉は「山蔭は山伏村のひとかまえ」と俳句に詠むほどに山 伏が集住し、彼らは多賀社、祇園社、伊勢朝熊山明王院などに所属しながら、配札と売薬を生業としていたのである。

甲賀での飯綱図像は現在、数例確認できる。ここでは水口町杣中の真言宗福量寺にある木造飯綱像を中心に、甲南町竜法師の天台宗嶺南寺の飯綱図像と、個人像の飯綱法を紹介することにしたい。木造飯綱像は、福量寺境内に建つ小堂の中に安置されており、その像容は、渦巻く火炎を背負い、右手に剣、左手に羂索を握り、背に二枚の羽が生える。頭部を正面に向けた赤白色の白狐に乗り、全身は 青黒い。手首、足首には蛇が巻き付いている。面相は通常の飯綱権現に見られる ような鳥面ではなく、獣のような顔つきであり、従って口ばしなどはなく、上向 きの牙が二本突き出ている。この像を飯綱不動明王とした(後述する木村家系図 による)のも、鳥面ではなく、むしろ不動明王に近い形相からだろうか。「飯縄 山廻祭文」にも飯綱は不動明王の変化身であるとしている。狐部分の台座や光背 を含む総高は約一一四km、本体のみ(狐部分を含む)の像高は八四kmもあり、近世期に制作された木造彩色像と言えるだろう。そして棟札より正徳三年に小堂が 建てられ、飯綱権現が納められたことが分かる。

この飯綱権現は三月二の辰の日を祭礼の日とし、この日以外は秘仏として人目 に触れることはなく、その存在はあまり知られていない。こうした飯綱像が甲賀にもあったということに留まらず、さらに興味深いのは、この像が甲賀の忍びと関係が深いことである。

この像はもともと福量寺にあったものではなく、寺から程近い木村家に祀られ ていたという。同家によれば敷地の北東角に祀ってあり、田一反(飯綱田という) 付けて寺に納めたと伝わっており、その由来を尋ねても「山伏をしていた先祖がどこからか、おいねて(担いで)来た」ということ以外、詳しいことは分からない。ただ非常に「きつい神様」と言われ、昔、家人が飯綱さんに足を向けて寝 ていたところひっくり返された、と伝わる。また神棚にはダキニ天に乗った尊像祀られ、豊川稲荷を信仰していたと伝わるが、稲荷山愛染寺とある祈祷札の版 =があることから、ある時期、伏見稲荷系の山伏もしていたのだろう。 木村家の系図によると、木村家の嫡流、宗領元春坊が杣中村福量寺に帰依し、綱不動明王を安置したと記され、宗碩が亡くなった年が宝永四年三月と記載さているから、祀られたのはその年より以前となる。続いてその弟に久康=初代奥之助の名が見え、「尾張名府に住す、寛文十二年八月八日尾張大納言光友公に抱えられ云々」とある。久康つまり木村奥之助こそが、尾張藩に召抱えられた「甲賀忍び」なのであった。木村家は佐々木氏を祖とし、もともと江州木村城主で、長享元年(一四八七)に足利将軍義尚が六角高頼を攻めた時に一族は離散し、 この時、木村宗成は山間の山伏村、甲賀の磯尾に隠棲、木村宗久が醍醐寺三宝院に属する当山派山伏となって奥之坊法印宗春を称して以来、子孫は代々奥之坊を名乗る山伏となり、多賀社の配札に携わった。やがて宗貫の代になって、磯尾を出て杣中に住したという。

ところで近年、尾張に召抱えられた甲賀者について詳しく知る史料が名古屋から、発見された。「文化十一年達シ書願留甲戌六月より甲賀五人」と表記された古文書には、初代藩主義直の代に甲賀忍びが二十人採用されたが「無拠訳」によって中断、その後延宝七年、二代藩主光友の代に(甲賀忍びの頭であり先に仕官していた)木村奥之助の仲介で甲賀の五人組もご奉公するようになった。そして後半には篭城の噂を察知して、大和郡山城に忍び込んだことなどが記されており、甲賀忍びの活動の実態を知る貴重な史料となっている。さらに「昔咄」(近松彦之進著)を見ると「瑞龍院(光友)御代に甲賀 の山伏の子に木村奥之助という者来り、清寿院に便り居し。云々……」とある。 ここに見える清寿院は尾張藩筆頭の修験寺院で、奥之助は近江佐々木氏を祖とす る修験頭の村瀬氏を頼り、清寿院の推薦で尾張に仕官することができたのであっ た。そして表向きは鉄炮打ちであったが、本命はあくまでも忍びであったという (「藩士名寄」による)。

そして注目したいのは、清寿院にもまた飯綱権現が祀られていたことである。 清寿院は名古屋市大須の大須観音の近くにあったとされ、別名「富士山観音寺」 とも称し、清寿院歴代は富士、飯綱権現の別当を兼ねるとともに藩の軍貝役を受 け持ち、合戦の際法螺を吹く役目に当たっていた。飯綱権現社は、貞享元年(一 六八四)名古屋城内御深井の庭向島にあったものを、藩主光友の命により清寿院に移したものとされているから、飯綱は尾張藩にとっても重要な軍神だったので あり、しかも甲賀忍びの採用を決定した藩主により、忍びの拠点清寿院に預けら れたとは興味深い。藩主自ら飯綱を移してきたのだから、それは忍びにとってな くてはならない特別な神だったのだろう。飯綱の霊力が強いことはよく知られ、 時に妖術とも言われたが、山伏によって呪法が込められてこそ、その力は発揮さ れる。山伏たちに期待したのはそうした超人的な験力ではかかったか。さらに忍 びはその力を実践の場で活用したはずである。「諸家雑話」によれば、「彩色は宝 暦年間に改められたり。像の長さ六尺、火焔を負ひ、岩上に立、手足に白蛇のは いたる像なり。此像、常に白蛇ありて守護す」とあり、像高一八Okmに及ぶ大きな像だったようである。「尾張名所図会」にみえる清寿院は、那古野山古墳を背景 にして境内が広がり、書院や富士権現社とともに、飯綱権現の社が描かれている。

しかし明治政府による修験道の禁止とともに廃寺となり、飯綱も戦災により焼失したという。

さらに木村奥之助の仲介により採用された甲賀忍び五人組の一人、渡辺善右衛門家の子孫の家においても多数の忍術書とともに「飯綱法」の巻物が伝存する。

「往古ハ薬ト云コトナシ綱一筋調へテ各呪詛ヲ以って病ヲ平癒ス綱ハ命ヲ繋綱也命綱也飯綱也 少彦名ノ自作之ツナハ信濃國碓井ニ飯綱大権現ト崇祭リ奉り今 云イソナハ狐ツカイヲ云」という文言で始まり、夫婦の鹿を捕らえて皮を剥ぐとか、亀の遺骸埋めて飯綱と崇める と説くなど、呪詛の類のために文意は理解し難い。ほぼ同様の「飯綱法」は 細工販細之 甲賀町大原家にもあり、「甲陽軍鑑的流」という巻物の中に収められているが、渡邉家の「飯綱法」は差出人の名から、五人組の一人であった望月弥作の子孫にあたる望月官三郎が、天保十年九月に渡辺善右衛門に相伝したものであり、末尾に望月家の家紋である九曜紋を用いた呪術を載せていることからも、甲 南地域において望月家に代々伝授されてきたものであろう。

最後に天台宗嶺南寺にある「飯綱図近江甲賀甲賀像」を見ておこう。今回の企画展でも展示されているが、白狐に乗り、体部に羽を有し、くちばしを持つ正統な紙本著色の飯綱像である。伝来した由来は明らかではないが、ここはまた修験をしていた竜法師望月家の菩提寺でもあっ た。そもそも甲賀望月家は信州北佐久郡の望月氏を遠祖とし、山伏として活動した者も多く、中でも望月本実家は「甲賀流忍術屋敷」の名で知られている。甲賀の英雄であった甲賀三郎が地底遍歴の末、蛇体に変じ、やがて諏訪大明神として示現するという「甲賀三郎物語」は信州各地に民話として伝播しているが、これは甲賀望月氏の伝承をもとに南北朝期に作られたものであり、竜法師の望月家は三郎の末裔と伝わる。嶺南寺の飯縄像と望月家との関わりは今後の課題であるが、信州と甲賀、この離れている両地域には望月氏を通じて、あるいは修験を通じて深いつながりがあったことは確かなことである。

ただ甲賀に飯綱信仰が広がったわけでは決してなく、個別に入ってきたと考える。木村奥之助が拠っていた尾張清寿院の飯綱権現と奥之助を輩出した杣中木村家に祀られていた飯綱権現、共に一七世紀後半頃に祀られたと思われるが、仕官先尾張で信仰されていた飯綱権現を故郷にも祀ったと考えられないだろうか。いづれにしても詳しいことは分からない。修験道が盛んであった甲賀特有の宗教的土壌があればこそ、飯綱の神も受け入れられたのであろうし、民間で修せられてきた外法や呪詛の類も、怨敵退散の術として忍術の中に組み込まれていった。甲賀市指定文化財である忍術秘書「万川集海」には、姿を隠す隠形の呪文として摩利支天の真言を載せるが、摩利支天もまた飯綱と並んで軍神として戦国武将の間で信仰されてきた。同書の天時遁甲編には陰陽五行説を駆使しながら、勝つ日負ける日や方角の吉凶を占う方法が記載されているが、これも山伏が得意とした占術が応用されたもので、まさに忍術は甲賀の修験文化の中から発生したものと言える。忍びを輩出した木村家においては、飯綱を軍神としても、験力を得る信仰対象としても重要な神であったに違いない。

(甲賀市教育委員会 文化財保護課)


忍者で思い出しましたが、こちらは極めて珍しい図録です。図録と言っても図版はほとんど収録されておりませんが、展覧会の目録ですので一応図録ということになります。こういう展覧会が行われていたことも知りませんでした。昭和60年発行の12ページの薄い冊子ですが、貴重資料でしょう。後年、なぜ忍術資料館から藤田西湖氏の図録が発行されたのかその経緯もこれでわかりました。

指導・筑波大学教授・渡辺一郎
協力・上野市・上野市観光協会
編集発行・小田原市立図書館

日本古武道研究の宝庫・藤田西湖文庫展
昭和四十九年三月、故藤田西湖氏のご遺志を承けて菊枝夫人からのご寄贈によるもので、まことに縁あって本館の架蔵するところとなったものである

藤田西湖文庫展開催にあたって
小田原市立図書館 館長川添猛

本館第十一番目の特別集書は、昭和四十九年三月、故藤田西湖氏のご遺志を承けて菊枝夫人からのご寄贈によるもので、まことに縁あって本館の架蔵するところとなったものである。 以来はやくも十年余を経たが、その間未整理のまま打ち過ぎ、多くの方々に検索・閲覧の不自由をかける申し訳ない仕儀となっていた。さいわい、渡辺一郎筑波大学教授の手によって、広い視野と客観的立場から分類、目録され、このたびようやく一般公開できるはこびとなったのである。これを機に、市民の皆さんはもとより、ひろく研究者の方々へのご披露として展覧会を催すこととなった。泉下の藤田西湖、菊枝ご夫妻のご意志を活かすことができたものと、よろこびに堪えないところである。

この展覧会開催にあたり、ご多忙のなかを時間をさいてご指導下さった渡辺一郎教授をはじめ、ゆかりの方々のご教示ご協力をいただいた。記して心から厚く御礼を申し上げたい、また文庫成立の際、特別の事情により忍術関係資料は上野市に分離して保存されることになったのだが、このたびは同市観光課ならびに忍術資料館のご協力により特別出品していただいた。深く感謝申し上げる次第である。

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