しばらくは海外宛に国際郵便を発送することができませんので(コロナウイルスの影響で、日本郵便が引き受け停止中です。)、海外のお客様とのやり取りがしばらくできません。買取の話とは全く関係はなく、興味深い本を紹介します。自粛要請もまだ続いていますので、時間のあるときなどに読んでみてはいかがでしょうか。
以前紹介しました「ナショナリズム・現代日本思想体系4・編集吉本隆明」には石光真清の「神風連」と「弔鐘」が収録されていました。たまたまこの2編を含む石光真清の手記が入荷しましたので吉本隆明のコメントとともに紹介します。
話はそれますが、「城下の人」の中の一章「戦場の少年たち」の中で、著者は薩摩軍がまだ城下に入っていないことを指摘した上で、熊本城大火の原因は「鎮台が火を放ったもの」と明記しています。
「裏切り者の仕業か、それとも士族連の切り込みか。熊本城下は一瞬にして魂を奪われた。しかしまだ薩摩軍勢は城下に入っていなかったのである。」
「大火は二十日の夜になって漸く鎮まったが城下の殆ど全部が見渡す限りの焦土と化して惨憺たる光景であった。この大火は薩軍の侵入に備えて鎮台が火を放ったものであるが、当時一般の人々には考え及ばないことであった。薩軍の隠密が侵入して放火したとか、あるいは熊本士族の一部が呼応して火を放ったとか色々の流言が飛んでいた。」
一方、熊本城の公式ホームページには「また難攻不落の堅城であるということを名実ともに実証しましたが、開戦直前に天守と本丸御殿一帯が炎に包まれました。原因には放火・自焼などいくつかの説がありますが、いまだに特定はできていません。」と書かれています。
歴史の真実はどちらなのでしょうか。気になるところです。佐多芳郎氏による巻頭の口絵はその燃え盛る熊本城を描いたものです。
石光真清(1868-1942)熊本市に生まれる。日清日露戦役第一次対戦に至るまで、陸軍軍人あるいは情報担当者として多く大陸に生涯を過ごした。その手記、城下の人・曠野の花・望郷の歌・誰のためには、その生涯と大陸各地での活動を綴ったもので、記録文学として一級品である。
ことに、誰のためには、少年期に神風連を尊敬する環境と時代に生まれた者が、陸軍関係者として大陸にその生涯の多くの活動をおくったあげく、ロシア革命の極東地区での影響の偵察を命じられて、ロシア帝政末期の資本家側・革命家に接触する仕方を語るものとして興味ぶかく、手に取るように両派の動きが観察されている。(吉本隆明)
神風連
著者は日清・日露・第一次対戦を通じて諜報活動などに従った政治的軍人。その自伝の第一城下の人の一章。ナショナルな感情で育てられた明治期日本人の心情をよく表している (吉本隆明)
弔鐘
前章に見られるような明治の国家形成期に感性の基礎を置く一日本人のロシア革命に対する屈折した反応の記録。自伝の第四・誰のためにの中から一章を抜いたもの(吉本隆明)
石光真清の手記
四部作の概略
城下の人:明治元年、熊本に生れ、 神風連の乱と西南戦争を目のあ たりに見た著者は、長じて陸軍 軍人となり、大津事件や日清戦 争にあう。やがてロシア研究を 志し、明治32年、大陸に渡る。
曠野の花:菊地正三と変名してハルビンに写真館を開き、ロシア 軍の情報を日本に送る。この間 人情に厚い馬賊や異国にさすら う日本女性たちの曠野に散って ゆく哀しい生涯を見送った。
望郷の歌:日露はついに開戦。遼陽、沙河と凄惨な死闘を続けて凱旋するが、重ねての渡満は志を得ず、東京郊外の郵便局長と なりしばし閑居の日を過ごす。 やがて輝かしい明治は終った。
誰のために:再び密命を受けて、 ロシア革命に揺れるアムールにとぶ。白軍・赤軍・外国勢力などの抗争の渦中で奔走するが、 シベリア出兵の狂乱はすべての 努力を押し流してしまう。