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さいたま市大宮区 重城保日記等歴史書買取事例
重城保という大人物の生きざまが如実にわかり、幕末から明治にかけての郷土の情勢が詳細にわかる貴重さは、何者にも代えがたい記録である。
菱田忠義 重城良造編
重城保は天保四年(1833) 望陀郡高柳村(現木更津市内)の名主の子として、 激動の時代に生れた。二十五歳で名主の職をつぎ、三十五歳で明治維新を迎える。 以後初代県会議長、郡長、衆議院議員等の要職に就き、道路の建設、水田の造成 等、地域開発に大きな功績を残した。学者、詩人としても高名で、織本東岳、嶺田楓江とも親交を結び、多数の碑文が残されている。大正元年(1912) 明治天皇 の御大葬の日、斎戒沐浴して奉悼の詩を書き、間もなく没した。行年八十歳。こ れは危く散逸を免れた、保の日記である。
重城保日記の編集について
菱田 忠義
重城保はわが郷土が生んだ偉人である。幸いに「千葉県君津 郡々誌』や「木更津市史』にその略歴が記載されている。その業績は枚挙にいとまもないが、特筆すべきは千葉県の初代県会議長 を勤めたことである。
重城保については、私自身子供のころわが家の土蔵に保管されていたこの人の書を見て、その力強さに感銘を受けた思い出がある。実は後年になってわかったことであるが、わが家の号であ る「山陽堂」という文字を書いたあとに「青書」とあり、これが重城保の雅号であった。恐ら く私の祖父がこの人と交流したものと思われる。
更に、重城保の流れを汲む重城良造氏と私とは千葉県立木更津中学校の同級生としての御縁で 結ばれた。卒業後もほとんど毎年の同窓会で相逢い、旧交を温めている仲であるが、十数年前は からずもこの君に依頼され、同君の物された原稿を校閲することになった。それと同時に、重城保の書簡の解読をも要請された。この書簡はたまたま富津の織本家に所蔵されていたものであり、 保の生前に親交のあった織本東岳あてのものである。
重城保は学者であり、詩人であり、政治家であり、文人であるので、その博学多識は今の私如 きの遠く及ぶ苦もなく、その教養からくる文辞も簡単に理解しがたく、その達筆の文字そのもの を解説しがたく、殊にその漢詩に至っては、往々にして訓読不能に陥り、わが非力を嘆くこと再々であった。
この間、重城良造氏は木更津の住居から、おのが車を駆って、上総湊の私宅まで、一週に一回宛来訪され、夜の七時から十時まで一緒に勉強した。
昭和五十七年に一冊『重城家の血脈』を上梓、ついで昭和六十年に一冊「梅香園への道』を刊行された。私は全原稿を拝見し、いささかの校閲にお手伝いした。この仕事と平行して書簡の解読に進み、その一部は上記の著書に収録された。
所がそのころ、どちらともなく、重城保日記の存在を意識の上に乗せ、この解読に取り組むことになってしまった。
重城良造氏は車で私宅へ通われ、事前に氏なりに解読したノートを持参し、改めて二人で文字 文章を確認する作業を継続した。いや現在も、いつ果てるともない作業を継続中である。誠に日記中には難解の語句や文章が多出するし、文字も達筆すぎて不鮮明なものもあり、原本の虫喰い や欠損の多いものもあり、日記の性質上本人のみのメモということから他の人にはよくわからな い部分も多く、何とも苦労の多いことで、何度も何度も長大息する状況であった。
しかしこの日記を書いた人が、重城保であることは、それ自体極めて意義深いものであり、重城保という大人物の生きざまが如実にわかり、幕末から明治にかけての郷土の状勢が詳細にわか る貴重さは、何物にも代えがたい記録である。
実は遂に重城保日記の解読に取り組むことになったころは、まだ日記の量は少なかったのであ る。木更津市立図書館に所蔵されているほんの数冊だけだった。この位ならさして時日も要しな いだろうというのが二人の考えだった。しかもこの数冊は重城保家に保存されていたものが、そ の後一気に開館に放出された際、ふと気づいた分家の重城養二氏によってその一部が保存され、 それが後日木更津市立図書館に寄贈されたものである。
この搬送作業に一人で精勤しているうちに、偶然のことから、新しく重城保日記の多数の残存 がかかって来たのでる。 一つは、私の手元に数部あったのである。これは随分以前に木更津市在住の河田陽氏から、「こんな日記は自分の手許に置くより菱田さんの所へあげる」というので、いただいておいたのを、すっかり忘れていて、ふと思い出して探し出したものである。正しく重城保日記の一部であり、 灯台元暗しにむしろわれながら驚いた。しかし河田氏がどうして入手したものかは、河田氏の生前にききそこなってしまった。河田氏は市史の編さんにも関係していたから、屑屋からでも入手したのではないかと思う。
もう一つは、重城保の血を引く重城和三さんが入手したものであり、この仲間は大変な冊数で あり、こんなに沢山の重城保日記が出てこようとは全く想像もしなかった。重城保の直系の和三 さんが重城家の後継者となったことによって、他の家へ預けてあった重城家の行李を返却された が、その中からこれらの日記が出て来たのである。ただ惜しいことに一部の日記は湿気を含みす ぎてコピーにも堪えられないもので、解読の対象とすることもほとんど不可能であり、これは諦めねばならなかった。
以上のように、二種類の新発見資料が出てきたことは、私たちを驚喜させたが、反面私たちの 仕事が際限なく大きくなったことを意味するわけで、目下解読の仕事を継続してはいるものの、 さっぱりいつ完了するかの見通しがつかなくなってしまった。
重城和三さんから木更津市立図書館へ、最後の一冊を除いて、日記は寄贈され、私たちはこれらのコピーを入手することができた。
一応のコピーがあれば、解読の仕事は進められる。
なお、この間に一つの朗報が入った。それは千葉県史編纂室が、千葉県の郡制時代の資料集を発刊することとなり、かつて郡長を勤めた重城保の日記の一部を刊行するといい、郡長在任中の期間の日記を検討し、それを対象にすることとなった。早速このことは実現し、私も及ばずながらその解説の相談にのった。この事業によって数冊が消化された。
結局、最終的に重城保日記の現存のものも確認され、この県史編纂室から刊行されたものを除 いて、目下着々と解読は進みつつあるわけである。ただしその解読は遅々として進まず、仲々大変な事業である。しかし既に数冊は読み終わり、これらを取りあえず、分冊として、順次刊行し てゆくこととした。実は重城保日記の外に一冊だけ保の父の重城継之の日記が残存していたので、 私たちはこの解説にも取り組み、この作業も終わったので、関連として父の日記も第一巻の中に収録することにした。
従って、今回編集を終わって上梓するに当たって、書名は『重城保日記』とし、その「第一巻」 とすることにした。内容は、重城保の父の継之の日記一冊と、重城保の日記一冊及び織本東岳へ宛てた書簡集ということになった。重城保の日記は多数残存しているものの、すべて揃っている わけでなく、欠本が相当あり、端本もあり、それこそ完全とはいえないが、これは致し方ない。
このたび、この本を刊行するに当たり、重城良造氏が私に、編集者として名前を並べて欲しいといわれたので、多少の責任を負う意味で結局は快諾した。重城氏の発行であり、私は解読にお 手伝いしたということから名前を出すことは恐縮と思っているが、重城氏の意のある所に従った。
又この本の印刷に当たって、大変お骨折りをかけたであろう浦部氏には、深甚の感謝を申し上 ける次第である。
重城保日記第十巻について
重城良造
重城保の日記は第八巻で一応完結し、第九巻には碑文の解読、保の青崖詩鈔、文鈔等を掲載した。ところが其の後解読困難と思われていた文亥家乗(文久三年の日記)が裏打ち修復することに依って、解読することが出来るようになった。この文久三年の日記は年代 的にみれば第二巻に掲載すべきものである。以上のような次第でこの日記を第十巻に掲載することとなった。
第十巻は保の弟子松岡織本泰が保管していた、保に対する各界の追悼文を掲載し、更に 保の娘婿であり保の嗣子でもあった重城巖の日記其の他を掲載した。
更に保日記に登場する人物の索引を作り、これを第十巻の末尾に記載して、この日記を 議な場合の便宜をはかった。この索引を作るに当っては多くの時間と労力をついやしたが、 未だ充分な推敲がなされたとは言い難いが編者らの時間の少ないことを考え不十分のまま 記載する次第である。
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