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埼玉県草加市より三笠宮家ゆかりの染織美・貞明皇后・いつくしみの御心等図録買取

三笠宮家ゆかりの染織美・貞明皇后・いつくしみの御心

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埼玉県 草加市
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図録買取 埼玉県草加市より三笠宮家ゆかりの染織美・貞明皇后・いつくしみの御心ほか。扱うテーマはそれぞれ異なりますが、3点とも宮中に関する図録になりました。

図録買取

明治天皇・邦を知り国を治める・近代の国見と天皇のまなざし
明治天皇が国土国民と向き合われるために何に視線を注がれ心を寄せられたのか

近世において天皇は御所を離れることは稀有であり、民衆の前に姿をあらわすこともまた絶無に近かった。明治維新 とともにわが国は近代化の歩みを本格化させるが、天皇も また新時代にふさわしい君主へと変貌を遂げていった。巡 幸はまさしくその象徴であり、古代における国見が欧州の近代君主像と融合しつつ、ダイナミックに再演されたものであった。

天皇は、みずから各地に赴き、地方の実情を見て回り、そうした天皇の姿に触れた民衆もまた新時代の到 来を強く認識することとなった。写真は十九世紀におけ る最大の発明の一つであり、巡幸においてもさまざまに活用された。すなわち巡幸に随従した写真師たちは、天皇の眼の代わりとなり、各地の風物や近代化の諸相を撮影して 回った。迎える各府県もまた写真をもって巡幸を時間的、 空間的に補完する画期的な技術とみなし、各地の相貌を撮 影し、これを献上した。新技術は写真だけでなく、洋画家 もまた油彩画の有する色彩と表現をもって時代を記録した。これらの写真や絵画はいずれも百数十年前の日本の 姿を活写したものであり、今もなお圧倒的なリアリズムを もって眼前に迫る。


明治天皇の六大巡幸

巡幸の名称について 明治天皇の六大巡幸とは、明治五年・九年・十一年・ 十三年・十四年・十八年に相次いで行われた大規模な地方行幸の総称である。もっとも六大巡幸という呼称自 体、後世のものであり、太政官の主導で行われた明治五 年~十四年各巡幸と、宮内省主導の明治十八年巡幸とを 分け、前者を五大巡幸と呼ぶ場合もある。各年の巡幸の名称も定まったものはなく、明治九年巡幸を例にとると 『明治天皇紀』では「東奥巡幸」、宮内公文書館所蔵『幸啓 録』では「奥羽御巡幸」「御東巡」、『行幸録』では「明治九年 御巡幸」「東奥御巡幸」とさまざまである。巡幸写真帖の 表題もまた区々であり、このため本図録では、明治五年 巡幸、明治九年巡幸といった名称を便宜上採用している。

巡幸の経路について 明治五年巡幸では、主に海路が取られ、上陸地は鳥羽・ 大阪・下関・長崎・熊本・鹿児島など厳選された。これ に対し明治九年以降は、陸路が中心となる。九年巡幸で は東京を発した後、奥州街道を北上し、青森から明治丸 に乗船され函館に上陸、帰路は太平洋を一気に南下する コースが取られた。横浜に帰着された七月二十日はその 後、海の記念日となり、平成七年(一九九五)には国民の祝日に制定された。十一年巡幸では、まず中山道を進み、 信濃追分から北国街道に入り、新潟県内各地を廻った 後、北陸道を西進し、滋賀県にて中山道に合流し、京都 に達した。その後は、現在の東海道本線に沿ったコース で還幸している。十三年巡幸では、最初は甲州街道を進 み、上諏訪・松本を経て現在の中央本線に沿ったコースを取って名古屋に入り、その後三重県を宇治山田まで進み、亀山から東海道に入り京都に達し、神戸より海路をもって幸された。十四年三幸では、九年巡幸と同様の 径路を青森まで進み、ついで北海道内各地を廻り、再び 本州に戻った後は秋田・山形両県を巡られた。十八年巡 幸では横浜丸にて横浜を出航され、海路と陸路の併用に より山口・広島・岡山各県を巡り、最後は神戸より船にて還幸された。


巡幸の特徴について
六大巡幸の内容、性格をみていくと、明治五年、九年 ~十四年、十八年の間には断層があることに気づく。五 年は海路主体ということもあり、独自色が強い。また史 上初の伊勢神宮への御親拝や、丸亀における崇徳天皇陵 (白峯陵・参考4)並びに淳仁天皇陵 (淡路陵)への御遙拝な どは、皇室の歴史において画期的であった。続く九年~ 十四年は、巡幸の確立期であった。天皇は陸路を進みつつ、各所に駕を止めてはその土地の風景や人々の営み を御覧になった。国見にふさわしく県庁において県治状 況の奏上や書類の奉呈を受けられ、官庁や学校、病院な どを廻られた。しかし、親臨できる箇所には限度がある ため、不足を補うべく、随行の皇族や大臣、侍従が各所に差遣された。こうした形式は地方行幸の祖型となった。 十八年は宮内省によって実施されたことはすでに述べた が、日程は短く、規模も小さかった。写真師の随行もな く、巡幸時のものと見なし得るのは、わずかに図書寮文庫所蔵「各種写真」第十一の広島鎮台における分列式の 模様とされる写真程度である。宮内省による巡 幸日誌も作られず、参議兼宮内卿伊藤博文の命を受けた太政官書記官金井之族 (同人は超幸に随行)が編纂した「西巡日乗」は「起居注」が中心で、従来に比べ格段に簡易な内容であった。


佳麗なる近代京焼・有栖川宮家伝来・幹山伝七の逸品 幹山伝七の作品について知られるところは少なく、また彼と宮中との関係についても言及している珍しい図録です。

佳麗なる近代京焼・有栖川宮家伝来・幹山伝七の逸品
幹山の色絵磁器は評判を呼び、宮内省より買上げを受けたほか、海外の博覧会でも高い評価を 得ました

本展で紹介する(色絵四季草花図食器》は、平成十七年(十月に旧高松宮家から当館がご遺贈を受けた品々の一つである。幹山伝七による鮮やかな色 私の草花がとても上品で美しく、高松宮家では食器としてだけではなく、飾棚 に置かれて室内の装飾としても用いられていた。

高松宮家は、大正二年(一九一三) 七月六日の有栖川宮威仁親王の薨去によって断絶することとなった有栖川宮家の 卒覚を、大正天皇が第二皇男子であった宣仁親王に継承させるために創立された 宮家である。宣仁親王が祭祀とともに引き継がれたのが、有栖川宮家に伝わる美 術品類であった。この《色絵四季草花図食器》の他にも、有栖川宮家の御紋 が入ったフランスのリモージュ社の磁器製食器や、クリストフル社の銀器、バカラ社のクラスが高松宮家には伝わっている。それらは、明治期の有栖川宮家が西 洋の食器を積極的に購入していたことを示しており、御紋付では が幹山伝七 の和食器も同様に有栖川宮家で使用されていたとみられる。 

《色絵四季草花図食器》が、有栖川宮家歴代のどの当主の時代に納入されたもの であるかという点は、いまだ明らかな資料は見つかってない。しかし、幹山伝七 の京都における活動期間から推定して、第九代熾仁親王 (天保六年~明治十八年一八三五~一八九五)が当主であった、明治前期(一八七〇~一八八 ●年代) とするのが妥当と思われる。熾仁親王は明治天皇を補佐した皇族のなか でも最も重要な人物として知られ、慶応三年(一八六七)の王政復古後に樹立さ れた新政府の最高職である総裁を務めたほか、明治政府のもとでは元老院議長や 左大臣、西南戦争では征討総督となるなど、政治・軍事の両方で枢要な役割を担っ ていた。明治天皇からの信任も厚く、明治十五年(一八八二) にはロシア皇帝即 位典礼に天皇の御名代として参列、あわせて欧州各国王室の内情を視察し、アメリカを親善訪問するなど、国際的な視野も広い皇族であった。先の外国製洋食器 の使用も、欧州各国の王室の食習慣に倣ったものであり、熾仁親王が西洋文化の 導入によって皇室の近代化に果たした役割は大きなものであった。

しかし、他方では、有栖川宮歴代親王に引き継がれてきた什具や、本展で紹介する《色絵四季 草花Z食器》のような和食器も使用しており、適宜、和洋の使い分けをされてい たようである。この点においても、和洋折衷の建築様式を採用した明治宮殿をはじめ、西洋化と国粋保存を両立させようとした明治天皇を補佐し実践されていたことがうかがわれる。


幹山伝七-京焼の革新者

はじめに
幹山伝七 (初代、一八二一~九〇) は明治前期の京都を代表する製陶 家の一人である。瀬戸に生まれ、彦根藩の湖東焼を経て、京焼の本場・ 清水焼に至るという生涯は、幕末から明治へと目まぐるしく変化した 時代状況を反映している。しかし、わが国の近代陶磁史上の重要な人 物であるにも関わらず、これまで幹山の再評価は遅れてきた。本展で 紹介する有栖川宮家伝来の《色絵四季草花図食器》の存在は、この忘れられた名工の全盛期の作風を知るための第一級の史料となるだろう。 本稿では幹山の製陶活動をふり返りつつ、《色絵四季草花図食器》以外 の作例を紹介し、あわせて皇室および宮内省との関わりについても言及する。

湖東焼から京都へ

幹山伝七の履歴についてまとめられたほぼ唯一の文献として、大正 十四年(一九二五)に刊行された北村壽四郎編著『湖東焼之研究』があ る。以下、同書を参照しながら幹山の生涯を記述していくが、一部に 年代などに齟齬がみられる部分もあるので、同書とは異なる推論を交える箇所があることを始めにお断りしておきたい。

幹山伝七は、文政四年(一八二一)、尾張藩春日井郡瀬戸村で代々製 陶業を営む加藤孝兵衛の第三子として生まれた。幼名は繁次郎といった。幹山自身も、京都に出てから製陶上は伝七と称したが、それ以外 では孝兵衛を名乗ったという。瀬戸での幹山の活動については知られ ていないが、安政四年(一八五七) には彦根藩のお抱えとなる。これは、藩主井伊直弼が藩窯である湖東焼を改良するため、優れた陶工を招致したからであった。幹山は同郷の陶工寺尾市四郎の婿養子となり、その元で陶技を学んだ。幹山は古窯と呼ばれる瀬戸方式の窯詰め、焼成 の技術と、絵付けに優れていたので、二年後の安政六年には二人扶持を支給されるようになり、職頭として他の職人をまとめる立場となっ た。しかし、井伊直弼の暗殺後、彦根藩内の政情不安により、文久二年(一八六二) 八月に湖東焼が廃案になると、その翌月に幹山は京都へ 移った(註1)。 京都へ移った当初、幹山は東山の産寧坂にあった明石屋初太郎の家 に仮寓しながら、磁器の製造を始めたようである。その頃作っていた のは染付であった。明石屋初太郎は播磨出身の陶工で、当時は京都で 製陶業に従事していた。その後、明治二年(一八六九) に彦根藩が湖東 焼の再興を試みた際、幹山の紹介で彦根に赴くが、同四年七月の彦根 藩廃藩と同時に湖東焼も廃窯となったため、京都へ戻り幹山の工場に参加した。

幹山は、慶応年間(一八六五~六八)に産寧坂興正寺の前に古窯を築き、磁器を専業とするようになった。それ以前は、霊山 (現在の京都 市東山区清閑寺霊山町)で磁器を製造したとあるので、やはり産寧坂の付近に窯があったようである。京都時代を通じて幹山は産寧坂で製陶活動を行っており (現在の京都市東山区清水三丁目)、後述する大規 模な工場をこの地に設置する。 産寧坂の界隈は清水寺や高台寺に近く、 昭和五十一年(一九七六)に京都市より伝統的建造物群保存地区に指定 され、現在も古い町並みの景観が残されている。もともとこの付近は、 十七世紀から清水焼が作られてきた伝統があり、粟田口と並んでまさ に京焼のメッカとも言うべき場所であった。そのような旧弊の強い土 地に、新興の同業者が参入することは容易ではなかったと思われるが、 その障害を乗り越えられたのは幹山自身の実力もさることながら、明 石屋初太郎のような協力者や後述する槇村正直ら有力者の支援があったからであろう。たとえば『湖東焼之研究』によると、元治元年(一八 六四)に華頂宮家の御用品を焼成したとあり、幹山は早くから有力者 の庇護を得ていたことがわかる。ただし、華頂宮家は慶応四年(一八 六八) に伏見宮邦家親王の第十二王子である博経親王によって創立さ れたので、この事跡は訂正すべきで、伏見宮家の御用品であったか、 あるいは慶応四年以降に華頂宮から依頼された仕事であったのだと推 測される。また同書では、慶応三年には「陶工中で頭角を現すに至り」とあるが、これは同年改刻版の『平安人物志』に収録された京焼陶工の 中に、幹山の名前が加えられたからであろう (同書には「加藤幹山号 松雲亭,清水三年坂下」と記載された)。

幹山の製陶活動が大きく飛躍するのは、時代が明治へと変わってか らである。 まず、明治元年(一八六八)に京都府庁の注文品を請け負う。 これがどのようなものであったのかは不明であるが、すでに幹山が京 都の主要な製陶家とみなされていたことを示している。京都府では大 参事を務めた槇村正直のもとで、積極的な殖産興業政策が推進された。 槇村は長州藩出身、のちの第二代京都府知事を務めることになる人物で、製陶業だけでなく、染織業の近代化に関しても多大な貢献をした。 明治初年における幹山の躍進の背景には、槇村の少なからぬ支援があった。

明治三年、槇村の尽力により、勧業場内に舎密局 (せいみきょく) が 設立される。舎密局には、明治十一年にドイツ人化学者ゴットフリー ト・ワグネルが招聘され、陶磁や七宝、染織などに関する化学的な改 良が研究され、実際の製作にも応用された。『湖東焼之研究』には、京 都時代の幹山を特徴づける色絵磁器に用いられた鮮やかな西洋絵具 は、槇村の勧めがあって幹山がワグネルからコバルトなど十三種の試 用を依嘱され、試験を経て成功したのでワグネルより購入したもので あると書かれている。この事実自体には取り立てて否定すべき要素は ないが、舎密局の創立とワグネルの招聘の間には約八年の隔たりがあり、幹山が西洋絵具を用いて製作を始めるのが明治十一年からとすると、その後の幹山の活動から考えても遅すぎるのである。それよりも 前に幹山はワグネルに出会っていなければならないはずで、筆者の推論ではあるが、明治五年七月にワグネルが翌年の ウィーン万博の美術工芸品出品の準備のため京都 へ出張した際、幹山に西洋絵具の試用を依嘱した とする方が時期としては辻褄が合う 。

明治五年になると、幹山が当時の京焼を代表す る製陶家として認められていたことが、他の史料 からも明らかになる。まず一月に、工夫を凝らした外国向けの製品を輸出したため、京都府から「職 業出精ノ者」として表彰される。そして三月から 五月にかけて開催された第一回京都博覧会では、明治天皇行幸の折、珈琲茶碗などの御買上を受けた。その間の四月に は、翌年のウィーン万博出品を所管する臨時博覧会事務局の依頼で、 京都府から東京行きを命じられ、清水焼の製造法、特質、形状等の説 明を行うなど、順風満帆の様子がうかがわれる。この年の京都博覧会 に珈琲茶碗を出品していたということは、すでに洋食器の製作を始め ていたのだろう。しかし、まだ西洋絵具を用いた絵付けは万全ではなかったとみられ、六月に臨時博覧会事務局から依頼された万博出品の 見本品に対し、同事務局副総裁を務めていた佐野常民から不合格の通 知があり、東京で絵付けを行うので白磁のまま送付するよう要請され る。結局、幹山はウィーン万博では銀牌を受賞するのだが、その絵付 けが実際に東京でなされたのかどうかは不明である。

京都時代の幹山伝七の作品
その後、幹山は勧業場御用掛や京都博覧会の審査員を務め、京都の 殖産興興業の発展に寄与する一方、内外の博覧会への出品にも熱心に取 り組んだ。ここで、博覧会出品当時の写真を参照するとともに、現存 する幹山の作品をいくつか紹介しておきたい。まずは、明治十年に開 催された第一回内国勧業博覧会の出品作 である。龍形双耳花瓶 で、地文様を草花図で埋め尽くし、胴部四方の円形部分に人物図を描 いている。耳以外の器形は、当館所蔵の《色絵草花図花瓶》(52ページ
参照)に近いものである。幹山はその他に花鳥かれた た高さ三尺もある大花瓶を出品し、同博で鳳紋賞牌を受 賞した。翌年のパリ万博の出品作も写真が残っており、 花瓶と珈琲セット が写されている。こちらも円 形や扇面形に白く抜いた部分に人物図を描いたものであ る。両隣の三代清水六兵衛による蓮の葉をかたどって蟹 を貼りつけた蓋付鉢と比較すると、珈琲セットは奇を衒ったところのない実用的な器形である。このパリ万博 で幹山は銀牌を受賞した。十四年の第二回内国勧業博覧 会出品作は、球形の胴部全面に蓮の絵を描いた花瓶 (図 3) である。蓮の絵付けは《色絵四季草花図食器》のなか にも確認することができる。これらに先がけて、九年に 開催された米国フィラデルフィア万博の出品作が現存している。それはイギリスのヴィクトリア&アルバート美 術館が所蔵する《色絵金彩花鳥図花瓶》(図4) で、色絵 に重ねられた精緻な金彩文様はまるで截金のようである が、一方で胴部の花鳥図の絵付けには当館所蔵品との共 通性がうかがわれる。この花瓶は、平成十八年に京都国 立博物館で開催された「京焼ーみやこの意匠と技―」展 で里帰りしたが、じつはこれと対になる花瓶がもう一点 あり、残念ながらそちらは出品されなかった。幸い現在、 同館のホームページから Kanzan Workshop の名称で、 もう一点の花瓶も画像検索することができる。

前述したウィーン万博出品をふれた折、幹山に対し、 白磁の素地のみを要求する依頼が東京の臨時博覧会事務 局からなされていた。このときは絵付けの素地であった が、明治十年前後に輸出向けに盛んに製作された磁胎七 宝では、七宝の素地として瀬戸で作られる白磁の需要が高かった。瀬戸が七宝の産地である名古屋に近かったか らである。瀬戸出身の幹山も磁胎七宝の作品を残してお り、幹山は素地の供給を行い、七宝の工程は名古屋か京 都の舎密局が担当したものと推測される 。


明治の宮中デザイン・和中洋の融和の美を求めて

明治の宮中デザイン・和中洋の融和の美を求めて
明治期の宮中を彩った美術工芸作品の数々を見直し明治の美意識の一断面を探ろうとするもの

この十一月に開館十周年を迎える当館では、宮内庁における美術作品 と美術史、文化史の専門研究機関として、発足当初から収蔵品の整理と 調査・研究、修復事業を積極的におしすすめる一方で、多種多様な美術、 工芸作品を逐次、さまざまなテーマにしたがって館内外でひろく公開す る努力を続けてきた。また、館内での企画展示に際して、テーマに応じ ては、御物をはじめ、書陵部や用度課、大膳課など宮内庁内各部局に保 管されてきた品々をまとめて、もしくは館蔵品と合わせて展観すること も重ねてきた。さらにその過程で、収蔵品に関わるさまざまな美術史、文化史上の特定の研究課題を新たに浮かびあがらせて、学芸室に所属す る各研究職員がそれぞれに見いだすことのできた一定の調査・研究成果 を機会あるごとに発表することも、怠りなく継続させている。

しかし、これらの活動をすすめていけばいくほど疑問として強く意識 されはじめたのが、いったい、当館をはじめとした庁内各所に受け継が れてきた美術、工芸品とは、近代、すなわち明治から昭和前期までの各 期には、宮中で実際にはどのようなかたちで用いられてきたのだろうか という問題であった。収蔵品にかぎっても、なかには保管状況から判断して、宮中に納められて以降は、ほとんど収納箱から取りだされること もなく伝えられてきたのではないかと考えられるものがある。その一方 で、かなりの頻度で、あるいは長期間にわたって用いられ続けてきたこ とがうかがわれるような、物理的劣化や損傷がみられる作品も少なくは ない。もちろん、大膳課所管の各種食器類のように比較的用途が明確と 思われる実用的な器物については、どのように用いられたのかなどどと いう疑問をいだく必要もないだろう。だが、現実に室内装飾として用い られたものならば、絵画作品はもちろんのこと、実用的器物というよりも観賞性の色濃い調度、工芸品の場合は、どのように室内に配されていたのだろうか。

 


三笠宮家ゆかりの染織美・貞明皇后・いつくしみの御心
殿下が大切にされてきた品々を通し大正期の優れた染織技術の粋とその意匠美に触れる
三笠宮家ゆかりの染織美・貞明皇后・いつくしみの御心
殿下が大切にされてきた品々を通し大正期の優れた染織技術の粋とその意匠美に触れる

三笠宮家は、大正天皇と貞明皇后の第四皇男子としてご誕生になった崇仁 親王殿下が、ご成年を迎えられた昭和十年(一九三五)に創立された宮家である。 当館では、三笠宮家が所蔵される御服類をお預かりすることとなり、この度の 展覧会で、崇仁親王殿下がご幼少時にお召しになったお和服、お洋服をご紹介 する機会を得た。これらの品々は、殿下の御母、貞明皇后の思し召しによって 訴えられたものである。なかでも、振袖に仕立てられた美しい晴れ着の数々は、 皇室や公家の服飾の伝統を色濃く伝えながらも、大正期の染織技術の粋を示し ており、この時期ならではの、明るく軽やかな色彩に満ちている。また、親王 のご幼少時のお召し物が、これほどにまとまって伝えられていることも珍しく、大変に貴重である。三笠宮家は、昭和二十年五月二十五日の空襲で被災され、 宮邸が全焼している。この時、宮家の土蔵にも焼夷弾が落ちて被害を受けたが、 幸いにも御服類が納められていた棚は焼失を免れ、今日まで大切に保管されて 伝えられてきた。

ここでは、本展開催を快くご了解くださった三笠宮崇仁親王殿下ならびに百 合子妃殿下の御事績とともに、崇仁親王殿下のご成長の折々に、貞明皇后が注 がれていった御心のご様子を、愛らしい品々を通してご紹介する。

崇仁親王殿下は、大正四年(一九一五)、京都で大正天皇の即位の礼が行われた 翌月、十月二日に赤坂御用地内の青山御所でご誕生になった。ご誕生時の体 重は九百三十匁 (およそ三五○○グラム)、と当時の新聞は伝えている。七日目の 十一月八日に行われた命名の儀において、御名を「崇仁」、ご称号を「澄宮」と定 められた。お印は「若杉」である。三人のお兄様方である裕仁親王(皇太子、後の 昭和天皇)、雍仁親王 (秩父宮)、宣仁親王(高松宮) が、明治天皇の皇孫としてお生 まれになったのに対し、崇仁親王殿下は、天皇の皇子としてお生まれになった ことは、お兄様方とは生まれながらにお立場が違った、ということでもあった。

貞明皇后は崇仁親王殿下を御年満三十一歳で出産されたが、上の三人の親王の 御養育に当たられた時は、まだ年もお若く、皇太子妃というお立場もあり、周 理へのこ慮もあったが、崇仁親王殿下の御養育は、その思し召し通りにされたという。貞明皇后が選ばれた美しい晴れ着、それをお召しになった殿下のお 写真の数々からも、高松宮から十一歳近く年が離れて誕生された一番末の崇仁 親王殿下をことのほか可愛がられた様子が窺える。崇仁親王殿下は、週に数回、 宮城に参内してご両親にご挨拶される、というご日常のなか、青山御所におい て多くの職員に囲まれて健やかに成長された。満五歳の頃には、すでに歌をお 詠みになり、殿下の詞に、「七つの子」などで知られる作曲家、本居長世が曲を 付けられたことは、殿下の童謡として当時、新聞などで広く紹介された。純真 なお言葉による歌には次のようなものがある。

月と つきよのそらを がんとびてみやくんごてんでそれみてる

(筆者註)「みやくん」とは殿下ご自身のこと

夾竹桃 きょうちくとうにはなさけばてうやとんぼがとんでくる

砂糖 さとうはあまくおいしくてぎゅうにうなんかにいれてのむ 田母沢河 たもざはがはは みづきよし なんでもながせながながせ

これらが紹介された翌年の大正十一年四月、殿下には学習院初等科に入学さ れた。初等科時代には、野球を覚えられて、宮家職員とともに野球チーム「青山澄宮」を結成するほどまでに、熱心に取り組まれた。また、初等科四年からは、 沼津御用邸近くにある学習院遊泳場での遊泳演習に参加され、小堀流の古い 法を学ばれるなど、その活発なご様子が窺える。初等科五年、満十一歳を迎え られて間もなくに大正天皇が崩御され、御兄の昭和天皇が即位されて、昭和の 御世を迎える。昭和三年三月には初等科をご卒業、翌月には中等科へお進みに なった。本展でご紹介しているお召し物は、この初等科時代までのものである。


 

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