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奈良三作・米野健一・熊本県知事細川護熙字買取
奈良三作を語る。いや語ってみたい。いやいや語らせてもらいたい。それは私の長いあいだの夢であった。 この江戸初期に興った奈良派と称する金工一派の中で、特に奈良三作として有名な、利寿、安親、乗意。その三名の名工を何時の日か、自分なりの自由な見方で論じてみたい。それは舞・小道具の世界に生きる私にとっては、大きな生き甲斐であり、また憧れでもあった。
然し、現実は夢や、あこがれとは大きく違って意外にも厳しく、奈良三作という身分不相応な重荷を背負って、毎日毎日を飽くこともなく一人で歩き続けた。 でも考えてみれば、それは何という思いきった冒険であろうか。明治このかた百十年。いやそれ以前からも、奈良三作を一括して自分なりの信念と責任に於て、これを論評し得た人はいない。しかも奈良三作には国家指定の重要文化財、重要美術品が利寿は六点。安親は二十点。乗意五点。合計三十一点もある。それにも不拘らず、この三作には結論の出ていない問題が意外に多く残されている。
特に最近は出版ブームに乗って、刀剣は勿論のこと、舞や小道具の本も沢山世に出てきたが、何故か奈良三作だけは誰もが、これを敬遠して多くを語ろうとはしない。その深淵にも似て奥が深く、難解な奈良三作の渦中に自ら進んで飛び込み、竜神が守ると伝える宝珠の玉を、水底深く探し求めんとするが如き、私のこのたびの研究発表である。
奈良派の概説
古奈良
古奈良の系譜
奈良三作(新奈良)
図版
奈良派系譜
奈良三作年表
参考文献
これは諸先輩の方々から見れば、奈良三作の解明は不可能に近く、また無謀とも言えるもので、田舎業者の神を恐れぬ 出過ぎた振舞として、論説全体を否認されるかもしれない。尤もなことである。
しかし、そのことは充分承知し、納得した上で、それでも尚、これを語らんとする私の執念もまた、我ながら相当なも のだと思う。これは自分で言うのも可笑しいが、一人我が道を行く「独行道」の心境にも通じるものではあるまいか。
なお奈良三作は有名ではあるが、その週辺には何か近寄り難い怪しいムードが漂よっている。正真となれば無条件に高 く評価され、いけないとなれば、ただ同然となる。そのためであろうか。識者と言われる方々でも三作だけは始めから、 これを避けて通られる人が多い。その難物を自分勝手に好きなように語ろうとするのだから、これは大変な仕事であり、 それなりの信念なくしては到底出来ないことである。
さて、この発表が我が意に反して一般の認める所とならず、浅学軽挙の誹りを受けて恥を天下に晒すか。はたまた奈良 三作を学ばんとされる諸兄の協賛を得て、坐右必携の書となるか。その成否功罪は知らず。ただ己の信ずるところを世に 問うてみる。それは奈良三作を極めんと志す者にとっては無上の光栄であり、この上ない喜びである。
ときに、物を楽しむに三つの道あり。その一つは、その作品の ご を眺めて気楽に楽しむ趣味の道。次にはその趣味の 道に飽き足らず、何時の間にか、その道を深く堀り下げて一人で楽しむ道楽の道。三つ目は、その道を求め尽して、その 頂上を極めんとして一人呻吟刻苦する極道の道との三つがある。道楽、極道、共に一般では良い表現には使用されない言葉であるが、ここでは良い方の道に取りたい。今の我が道がその極道の道と思う。然し、その道はどうであれ、わが進む道に悔なし。「奈良三作」それは正に相手にとって不足のない無類の強敵であり、同時にそれは、またとない研究課題でも あった。
中国、唐代の詩人杜甫の、 曲 江の詩の一節に曰く「人世七十年。古来稀なり」と。その杜甫も七十を知らず。曲江の 畔りで酒盃を友としながら、五十九歳で世を去ったが、私は幸いにも七十の古稀を過ぎるまで天命を得て「奈良三作」を発表する機会を与えられた。それは私の長かった人生の最後を飾る一期一冊の記念すべき出版であった。どうしてこれが感謝感激せずにいられようか。
思えば、ここに至るまでには喜びも苦しみも交々。その道程は紆余曲折。一進一退したが、過去て終えば、それも これも呂の故事に見る「邯鄲は夢の枕」の如く、その一つ一つの全てが懐かしい思い出となったの だ った。 奈良三作の勉強を始めて、ここに二十数年。やっとのことで三作を語れた喜び。いや語ってい た。 いやいや語らせてもらった、その感激の素晴しさ。そして長い間の夢が実った今。有難、 此処に満腔の謝意をこめて序文と致します。
昭和六十一年三月一日
後書き
奈良三作の発刊も予定より大きく遅れたが、これが早く完稿していたら掲載資料の点数は、或いは今の半数足らずであったと思う。 禍 が転じて福となった気もする。
このたびの出版のためには、東京国立博物館、刀剣博物館を始め、各美術館、それに多数の愛好家の皆様や、先輩の諸先生に資料の提供や蒐集に対して多大の御協力を戴き、大変お世話に相成りました。いちいち、お名前は挙げませんが、誌上を通じて厚く御礼 申し上げます。 特に大塚巧藝社には、資料の写真撮影に入ってからでも五年に亘る、長い間の御協力ほんとうに有難うございました。
実は奈良三作の出版にあたっては、始めからの計画で特別の作品以外は、成るべく手許で写真を写させて戴いた物だけを掲載することにしていました。右の様な次第で現物未見の作品の中には所載したい物もありましたが、このたびは見送った次第です。
尚、申し遅れましたが、日本美術刀剣保存協会熊本県支部の、名誉顧問である、細川家十八代、現熊本県知事、細川護熙先生に特にお願いして、「奈良三作」の題字を頂戴致し、拙著に対して錦上花を添えさせて戴きました。感激の極みでございます。
さて念願の奈良三作の発表には、なんとか漕ぎつけましたものの、その成果を静かに振り返ってみる時。改めて想い起されるのは、肥後象嵌の人間国宝、故米光太平翁の教訓でした。「己の仕事を自分で吹聴自慢すること勿れ。その良し悪しは、その仕事振りを見た他人が決めることである」正に至言です。
私の奈良三作論も誠にその通りと思う。自分ではどんなに努力したからといって、それだから立派ということにはならない。何処でどんな大きな誤りを犯しているかもしれないのである。でもただ一言いえることは、期間が長びき途中で何度も顕ずきかけたが、どうにか三作を語り終えたことえの、やれやれという安堵感はある。またその反面では、よくも天下の民一年自分下に命じたものだと、我ながら呆れると共に、これで満足して良いのかという気持にもなるのである。
「臘を得て蜀を望む」後漢の始祖光武帝 (○○二五)は何とかして朧西の土地が欲しいと予予思っていたが、それがやっと手に入 ると、今度はまた隣りの蜀の国まで欲しくなってきた。その限りのない人間の欲望を光武帝自身が嘆じた成語である。
私も一期一作。一生に一度と思った奈良三作の仕事が一段落すると、その成果も判明せぬうちに、私の頭の中では何時の間にか、 もう次の事を考え始めている。人間とは何時の時代も皆んな欲の深いものである。然し私の欲望は武帝のような大きな国盗りの夢で はない。今度は鐘の中では最高の難物「金家と信家」が、既に次の研究課題として、ドッカリと坐り込んでいる。この二つの鐘を初 心に還って更に今一度、始めから勉強のやり直しをやりたいと思うのである。
でもそれは余命もあと僅かであろう我が命と思い比べてみる時、恐らく未完に終ることは必定とは思うが、それでも両鐘の資料 の準備は粗力終っている「念ずることは何時かは叶う」という。後は天命の一日も長からんことを祈るのみである。
それに今までは如何なる論説に対しても、絶対に黙して語らなかった郷土の肥後鐘を、忌憚なく論ずることも、私に残された最後 の仕事と思っている。
老商の夢は何時果てるともなく続く。それはもう果しなき欲望であり。命の糸の尽きるまで続くであろう願いでもある。楽しい成 嬉しきかな。ただ只管に歩む一向の道。
美術品は人生に於ける長い旅路の道連れとして、気楽に眺めて楽しむも良し、私の様に深くその芸の心に触れてみるもよし、それは皆さんの自由である。御一読を心から感謝します。完
こちらは仙台藩ゆかりの名刀展、平成13年のやや薄い図録ですが、仙台藩に関連のある名刀のみを特集したものであまり見かけません。当社でも2回目の入荷です。
このたび鹽竈神社博物館と、財団法人日本美術刀剣保存協会宮城県支部の共同により仙台開府四百年と、宮城県支部創立五十周年を記念しまして、「仙台藩ゆかりの名刀展」を開催いたします。
本展では、伊達家の名宝、伊達家の御抱え鍛冶八家の代表作や、藩内有名工の作品を展覧いたします。
一千有余年、日本人の刀剣に対する観念は、単なる武器としてではなく、崇高なる宝器として、又芸術品としてきたようです。このような特殊な工芸品と しての日本刀の美を、私たちは世界に誇りうる文化の至宝として、永く後世に 伝承して行かねばなりません。
歴史を秘めた数々の名刀の、鍛錬された鋼の美を御清覧賜りますよう御案内 申し上げます。
尚、出陳に御協力いただきました各機関並びに各位には心から感謝申し上げ、 来館者各位ともあわせまして、佳き年でありますよう祈念いたし御挨拶と致します。
平成十三年正月日
仙台藩お抱え刀工のあらまし
仙台藩は伊達氏十七世に当たる政宗公を藩祖とし、現在の宮城県全域と岩手県南部の江刺、胆沢、磐井、気仙の諸郡及びその他を所領 とし、表石高六十二万石ではあるが、実際の石高は百万石以上と言われ、外様大名では加賀藩(前田家)、薩摩藩(島津家)に次ぐ大藩で あることは言うまでもない。
刀剣界において「奥州仙台」となれば第一に「山城大掾国包」を思い起こすわけであるが、仙台藩領内(含む一関支藩)で銘鑑に名を 残す刀工の数は、慶長以前の古刀期に属する刀工が九工程、それ以降現在に至るまでの刀工が二六○工程がおり、それ以外にも所謂銘鑑 漏れの刀工(銘鑑に掲載されていない刀工)もかなりの数に上るものと想像される。
仙台藩伊達家のお抱え刀工はこの山城大掾国包を初代とする国包家の他「永重」「国次」「安倫」「包蔵」「包吉」「兼次」「家定」の各家 があるが、それ以外に同藩領内の著名刀工を上げるとすれば、一流斎定俊、一関士宗明、雙龍子玉英、雙龍子直光父子を上げなければならないであろう。
「仙台藩ゆかりの名刀展」を開催するにあたり、改めてこれらの刀工についてのあらましを紹介したい。
○国 包
初代国包は本郷源蔵と称し、慶長十九年(一六一四)に伊達政宗公に召し抱えられ、藩命により京の越中守正俊に入門、通説のと おり寛永四年(一六二七)に 「山城大掾」を受領したものと認められる。
大和国保昌五郎貞宗の末流と称し、柾目鍛え直刃を得意とし、切れ味では最上大業物に列せられている。 寛永十五年(一六三八)に松島瑞巌寺中興雲居禅師から譚「用恵」、字「仁澤」を授けられ、正保二年(一六四五)に隠居し、用恵 国包と銘し寛文四年(一六六四)に七十三歳で没した。
二代国包は吉右衛門と称し、正保二年(一六四五)に家督相続し、寛文七年十一月十二日父より上位の「山城守」を受領した。 作風は初代と同様に柾目鍛えに直刃の刃文を基本とするが、それに加え大湾れに互の目交じりの刃文も得意とする。 寛文十二年(一六七二)に六十一歳で病没した。
三代国包は源次郎と称し、寛文十二年(一六七二)に家督相続し、元禄十年(一六九七)隠居を許され、家督を源十郎に譲った。 宝永二年(一七〇六)に七十三歳で没し、生涯受領はない。
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