埼玉県川口市より明代満蒙史料・李朝実録抄・明実録抄2箱宅配買取久しぶりの-2度目の入荷です。貴重品ですね。ありがとうございました。
昭和の初期は我が国における満蒙研究が著しく盛んになった時期であるが、外務省文化事業部においてもこれを助長するため、昭和8年春、新たに満蒙文化研究事業を起こした。
この事業は種々の方面から執り行われることになり、その一つとして李朝実録及び皇明実録から満州・蒙古に関する記事を抄出編纂し、明代満蒙史の研究に寄与するのことが取り上げられた。満蒙史研究に必要欠くべからざる資料が、整理された形で提供される事は、当時の学会の強く要望するところであったからである。
こうして李朝実録抄録の事は池内宏博士に皇明実録抄録の事業は内藤虎次郎・羽田亨両博士に託された。
當時東京帝國大學文學部教授の職にあった池內博 士が、 朝實錄中の満蒙關係の史料に深い關心を示された の は、この 時に始まるものではなかった。 古く大正三年の初の四庫本の一つである五台山本實錄の完本が東京大学附屬圖書館に移されると、新進の滿鮮史研究家としてたまたま元末明初の半島と滿洲との關係について 考察を進めておられた博士は、當面の研究課題 及び他日の明朝一代を通ずる満洲史の研究に役立てようとして李朝實錄の抄錄を思いたち、それ以後、毎夏その業を續け大正十二年の夏には、ようやく 太祖から中宗まで十一代の實錄の抄録を終った。
たまたま起った大震災は、圖書館とともに貴重なる實錄をも鳥有に歸せしめたが、博士は調査研究のため渡鮮の途次、京城の奎章閣收藏の太白山史庫本の實錄につい て、抄出をつづけられた。 こうして博士の手もとの李朝實錄抄はしだいに量を增していったのである。けれどもこれが、あくまで博士の研究の便宜を目標として の仕事であったことは当然である。
博士と李朝實錄とのつながりはこのようであったので、外務省文化事業部において、新らたに李朝實錄抄錄の事業がおこると、博士は旗田を選んで編者に充て、底本にはさきに昭和 五年から八年にわたり、朝 鮮總督府の事業として景印出版せられた景印太白山本實錄を用い滿洲・蒙古に關する記載は、朝明雙方に亘って細大もらさず收錄する方針を定めるとともに、自ら筐底に癒された李朝實 錄抄の草本を編者に預け、之を參考して體裁內容ともに新事業の目的に副うところの完全な抄録を編成せしめることとした。 こうして事業開始の後ち 五年正副の稿本各々二十六冊が作製され所期の業は一応の完了を見るに至ったのである。 た だ出版の事この際はついに行われなかった。 なおこの間、皇 明実録中満蒙関係史料の抄録も京都大學を中心として、著々として進行しつつあった。
李朝実録中の満蒙関係の記事は14世紀以降の満州蒙古方面の歴史民俗の研究に極めて重要な資料であることは言うまでもないがこれが抄録に止まり出版を見なければ資料が極めて一部の学者に利用されるに終わり広く学会の要望に応えることはできぬ。ゆえに博士はその後鋭意これが出版に意を注がれたのでついに昭和17年日蒙文化協会において既に編成されていた李朝・皇明両実録抄の稿本についてさらに周到な増補修正を施すのに合わせてこれが全編の出版のことも企てられるに至った。そしてこの度の稿本李朝実録抄の増補修正には新たに深谷敏鐵氏が当たることとなった。増修の要旨はつとめて前稿の遺漏を補うとともに内容がやや間接的である記事もむしろ廣きに従ってなるべくこれを収録することであった。
同時に朝鮮の対女真策に基づく朝鮮自体に関する事項もまたこの趣旨のもとに増補されたが、この場合においては凡例に示したような方法によって満州本位の事項との間に軽重を附し既に前稿に収録された同様の記事に対しても 新たにこの方針が適用された。こうして古く池内博士の手録に端を発した李朝実録抄の稿本はその後博士の献身的な指導と両編纂者の相次ぐ努力によってほぼ完全に近い状態となり一方全巻印刷の準備も進められた。しかるに昭和20年夏の日本の敗戦はこの出版事業の根底を一挙に覆した。博士の学会を益せんとする熱意は何ら報いられることなく稿本は再び稿本のまま蔵せられることとなり、しかも池内博士は昭和27年11月ついに道山に帰されたのである。博士が病床にあって常に本抄録のことを口にしておられたのを見てもいかに博士がこれに深い責任と愛情を感じておられたか、思い半ばに過ぎるものがあろう。
しかるに天はこの事業を見捨てず昭和28年に至ると文部省大学学術局学術課李朝実録抄録と別に行われた皇明実録抄録の出版がともに学会を液するところ極めて大きいことを認め両者の出版を補助することを許した。よって李朝実録抄録に関しては池内博士と最も関係の深い東京大学文学部内に関係者相会し、鋭意、進捗に力めた結果ここに明代満蒙史料李朝実録抄の刊行を見るに至ったのである。
思うにこの挙が池内博士によって志されてからすでに四十数年外務省満蒙文化研究事業の発足の日より数えても二十余年その間に薔薇の道を歩んできた感はあるけれども今ここに最後の行程に達し得たことは誠に喜びにたえない。
明代満蒙史料と題されたこの大部な史料集が、東京・京都の爾大皐東洋史研究室から刊行され始めたのは、昭和二九年に遡る。その後、毎年、着々と出版され、今年三月ついに全三三冊の刊行が完成した。各巻をみると、李朝貫録抄はだいたい500頁前後、明実録抄は700頁前後のものである。いずれも、凡例(例言)・目次を掲げ、さらに、蒙古篇一・満洲篇一には羽田亨博士の「皇明貧鍛抄序」5頁、回村寅造教授の筆になる「あとがき」5頁、李朝貧銭抄第一巻にも、旗因・三上・山本三教授の名による「序」8頁が附載されている。
内容は、表題どおりに、一四世紀後半から一七世紀初めまで、中国の明代に相当する時期の満蒙方面の基本的史料として、明貫録と李朝貫録とから関係記事を抄録したもので、明賞銭抄においては、蒙古篇に収めるところ、洪武元年(一三六八)一二月丁卯期、明の大将軍徐達が元の勇終擦廓帖木見を太原に被る記事に始り、満洲篇では、洪武二年四月乙亥、遼東における元の勢力を代表する納恰出のことから、また蒙古篇十と合巻の西磁史料篇(本文四五二頁)も、明廷がはじめて吐蕃に使節を涯遣する、洪武二年五月甲午朔の僚から、明一代の関係史料をあつめて、いずれも、明末天瞥七年(一六二七)まで及ぶ。同じく、李朝貧録抄は、太租貧鍛巻一高麗朝の記事から仁租ニ二年(一六四四)までを含んでいる。