樺太庁報7冊 郷土史買取事例。ずいぶん以前に送っていただいたものですが、アップし忘れていました。ありがとうございました。
旧樺太庁報誌の航跡
荒澤勝太郎
激動の時代に、日本の領土であった樺太で刊行された当時では、進歩的―樺太庁の施政並に法令に関する意図や其の内容を詳かにし、又汎く本島の産業・文化に関する研究意見を紹介する―な雑誌を復刻。
「樺太廳報」は、昭和十二年五月に、「……主として樺太庁の施政並に法令に関する意図や其の内容を詳かにし、
又汎く本島の産業・文化に関する研究意見を紹介すると共に……」という趣旨に則り、単なる公報誌ではなく、一 一般島民に広く親しまれる雑誌として、創刊されたものです。
月一回の刊行で第二十号(昭和十三年十二月)まで続いた。その後、官庁カラーを稀薄にさせ、島民に密着した編 集方針をとり、誌名も「樺太時報」と改称して第五十八号(昭和十七年四月)まで刊行された。 「今回『樺太廳報』として、「樺太廳報」の全号全頁(全六巻)、並びに「樺太時報」全号の目次、日誌、資料月報 等を一巻にまとめて復刻し、全七巻の構成は次の通りにいたしました。
樺太庁の広報機関誌として「樺太廳報」が創刊発行されたのは、盧溝橋に一発の銃声が轟き、それが日華事変に拡大した昭和一二年の五月であった。 樺太庁では法律・勅令・樺太庁令・訓令・告示に加えて叙任及辞令などは「樺太日日新聞」に補助金を交付して、 その最終頁を利用して、網羅的に一括して発表していた。島民が読もうが読むまいがなどの反応を調査することも無 く、上意下達は罷り通ったと思い込んでいた。
日華事変の拡大に伴い、島民の間を素通りするだけでは効果なしとの反省から、雑誌スタイルにまとめて、月一回 の広報誌発行に切り換えを断行した。誌名は「樺太廳報」とした。
当時、島民の間に「北進論」が拾頭して活発であった。北緯五十度の国境線を意識した論であった。従来の根副ぎ 掠奪方式で挙げた利潤は本州に在る本社の金庫に吸い上げられていた方式を、北緯五〇度線以北のソ連領にも及ぼそ うという野心を抱いた資本がけしかけたのかもしれない。これに対する批判・抵抗は樺太生まれの二世の間に秘かに 拡大して行った。
「樺太廳報」は、昭和十二年五月に、「……主として樺太庁の施政並に法令に関する意図や其の内容を詳かにし、
又汎く本島の産業・文化に関する研究意見を紹介すると共に……」という趣旨に則り、単なる公報誌ではなく、一 一般島民に広く親しまれる雑誌として、創刊されたものです。
月一回の刊行で第二十号(昭和十三年十二月)まで続いた。その後、官庁カラーを稀薄にさせ、島民に密着した編 集方針をとり、誌名も「樺太時報」と改称して第五十八号(昭和十七年四月)まで刊行された。 「今回『樺太廳報』として、「樺太廳報」の全号全頁(全六巻)、並びに「樺太時報」全号の目次、日誌、資料月報 等を一巻にまとめて復刻し、全七巻の構成は次の通りにいたしました。
O樺太廳報 第一号~第三号 昭和十二年五月~昭和十二年七月 の樺太廳報 第四号~第六号 、昭和十二年八月~昭和十二年十月
◎樺太廳報 第七号~第九号 昭和十二年十一月~昭和十三年一月 の樺太廳報 第十号~第十二号 昭和十三年二月~昭和十三年四月
樺太廳報 第十三号~第十五号 昭和十三年五月~昭和十三年七月
樺太廳報第十六号~第二十号
昭和十三年十二月の樺太時報 第二十一号~第五十八号 昭和十四年一月~昭和十七年四月 なお、復刻に際し国立国会図書館所蔵版を底本とし、欠号の第三十七号、第三十九号は北海道大学附属図書館所蔵 のものを使用させていただきました。