柳生心眼流兵術など武道書買取。
柔術・空手・弓道など内容は雑多ですが、珍しい本が多く、ありがとうございました。
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浅井哲彦氏の空手は、人とは違う。 しかし、ここで勘違いしてはいけない のは、浅井氏が決して通常で見られる 空手ができないと言うことではない。
事実、拓殖大~日本空手協会で空手を学び、数々の大会で勝利をもぎ取った。 第5回大会では見事、形と組手の総合優勝を成し遂げている。育てた弟子の 数は数十万人にのぼり、まさに伝統 手界の雄である、といえよう。
その空手のベースがあり、 さらに浅井氏がその全験及び世界各国の古流実 武術を取り入れ、練り上げた独自の が存在するのだのごとく、体から放たる その はまさに見えぬ「私と呼ばれる数々の急所を打ち抜 けば、劇画に登場する3年親しの技を も可能とする中国古来より伝わる鉄軍で鍛え 上げられた一本指でアイアンのシャフト を切る まさに柔なくして剛あらず。
これが松涛館流の他に存在する、強 烈無比の浅井流空手である。読者の皆様には、今までの空手の感 愛を捨てて読み進んでいって欲しい。
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初代山下先師の「公開絶対不可」の体を破り現宗家曽川先生の英断によっ て、前著「大東流合気武術」が世に出た。 後になって思えは、出版はたくまずして世紀末の節目に当たる1990年であった。
その後の西郷派大東流に対する、入門希望者、支持者、支援者の急激な増 加は、当惑を覚えるほどであり一個人や団体の意志を越えた見えない力が背 後に働いている事を痛切に感じる。
大東流は「保存」や「伝承」に努力を要する古流武術界にあってひとり、 多くの熱狂的なフアン層を持っている。人々が求め、時代が要請する何らか の力を持っているに違いない。
前著「大東流合気武術」では『合気』の術理を説き、それが思うほど難し いものでない事を説明した。 自分自身と向き合い自分を信じる事が『合気』であるというのが結びであっ た。
ところが、事はそう簡単なものでなく、人が自分と思っているものが、実 は本当の自分ではなく、生まれてから身に付けてきた、様々な反応パターン、 つまり反射的、無意識的な行動の型を自分自身と思い込んでいるところに、 「合気」の習得を困難にしている原因がある事までは解き明かさなかった。
その時点では秘事とされていた『行』の説明に触れる事ができないためで あった。「行」の裏付けがなければ、想念(こころ)は移ろいやすいがために、確 固とした信念を保持する事が極めて難しい。
本書において、初めて「合気行法」及び「合気統覚法」について言及し、 真の自分(魂)による『合気』の、すさまじいパワーについての説明が成さ れるのである。
西郷派大東流の行動原理が「知行合一」の『陽明学』にあり、戦略に「戦 わずして勝つ」ところの『孫子』を用い、修行を「神人合一」の『古神道』 によって行う事も明らかにされるであろう。
西郷派大東流皆伝師範 進龍一
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我々が今武術を学ぶ理由は一体何であろうか。 学校教育の場では格技だの武道だのと称して柔 道や剣道を正課として採り入れても、卒業後こ れらを継続して修行する者は殆ど皆無に等しい。
武道の武道たる本質を知らずに、ただ乱取や試 合をさせていたのでは、別にレスリングやボク シングでも構わないことになる。また、道場で は武道は精神を鍛えるものだと誇示していなが ら、いつも念頭にあるのは次の大会に勝つことである。武道をスポーツ(競技)として練習 (稽古ではない)しているのであるからそれで もよいであろう。
武術は武道ではない。ましてやスポーツでも ない。武術は累代相伝者(歴代師範)が生身をもって伝えた形の修行を通して術、即ち身体法則を見極め、その過程において自己と対決し、また客観的に自己を捉えることによって精神生 活を高揚し、人格を築き上げていく一つの方法 なのである。目先の勝負ばかりに追われて術本来の追究を忘れたならば、それは武術はおろか武道でもない単なる格闘技に過ぎない。
現代の世の中においては、武術の技をもって「衆人と対決することなどは許されることではなく、また、他人より闘うことにおいて強くなっても、それ自体に何ら社会的価値はないのである。護身術として武術を学ぼうなどというのも誠に低劣な考えである。最大の護身術は逃げることであり、もとより武人はそのような闘争が発生しうる場所に身を置くようなことがあって はならないのである。現代は理由の如何を問わ ずに出手した者は罪人となる世の中である。