盆栽雑報 明治時代に発行されている盆栽の雑誌で盆栽同好会によって発行されています。明治39年には第三種郵便物として認可され、明治42年ですでに40号を発行しています。この時代にしては口絵の写真や図版なども収録されています。明治末には帝国議会においても盆栽を飾っていたことがわかり、当時既に盆栽熱も高かったことがわかります。
第四捨五號
新年の辭
同好會諸君の深厚なる同情とけん愛を蒙りて永續したる本誌は発刊以来茲に新たなる年を迎ふること四回に及べり其間世上の形勢幾度か變遷して或は戦役後生産過剰の為め株式は乱調となり次て財界の不振等我盆栽界に取りては多少災厄を蒙り影響する所なしとせず然れども之れ皆一時の小波瀾にして一高一低は免れざる所假へば一歲冬枯れにて落葉せし盆栽も春に遇へば新芽を發し美事なる開花を見るに異らず目下の不景氣決 して怪むに足らざるなり如かず冬枯の休眠時に當り肥料を培い充分の養分を吸収せしめ置き世上の景氣春めき立てる頃を待って花を見る覺悟あるを要す一般商業界の挽回も将に此時期に在るべし諸君は此の際一層奮励努力不撓不屈斯界の發展を望む聊か所感を述べて新年の祝辞に代へここに同好會諸君の萬歲を三唱して萬福を祈らんとす 庚戌 歲 旦
編輯 同人識
明治三十年代後半――日本で初めての盆栽専門の月刊誌は、東京の盆栽園である香樹園と薫風園によって結成された「盆栽同好会」 の機関誌。明治三十九年(一九〇六)五月に創刊された、初の盆栽専門の月刊誌 である。『萬朝報』の副主筆・生島一(号・無待庵)を主筆に迎え、最盛期には六 千部を発行したが、大正六年(一九一七)に一四○号で廃刊した。
盆栽同好会の 設立及び『盆栽雅報』の発刊経緯が記された5によれば、同好会の設立は従来の 陳列会が年に一、二回程度しか開催されず、「同志」の社交の機会が少ないことを 理由に挙げている。その原因は、書画骨董を取り合わせた「謂ゆる一席持の陳列」 が煩雑だったことにあるとし、「最も簡便なる方法を設けて月次盆栽会」を開くこ とが趣旨とされている。
盆栽雅報の「発刊の辞」には当時盆栽は「社会の表面に立ちて劇務に従事する人士が、精神慰安の必要具として盛んに之を弄ぶに至れり、故に 其流行は未曾有の盛況なり」と述べられている。ただし盆栽が個人の趣味に留ま り「社交の一要具」となっていないことを「最も遺憾」のことであるとも述べており、 当該時期の盆栽の流行を背景に、盆栽趣味をさらに広めようとする意識を見るこ とができる。