ガンダーラ美術・古唐津など各種美術書など段ボール10箱程度あるとのことで横浜市旭区まで伺いました。引っ越しに伴う荷物整理ということで急遽横浜まで出張買取にうかがいました。長谷川利行氏の絵画や各種美術品なども多数お持ちだったようですでにそちらはご売却されたのとことでした。今回お譲りいただいた蔵書も長年にわたり蒐集されたもので、興味深い本も多数ありました。紹介しきれませんが、そのうち一部だけ紹介いたします。ありがとうございました。
ガンダーラ佛教送刻は、佛教美術成立の要となっている重要な文化 であります。しかし、学術的発掘の機会が少なかったこともあって か、ガンダーラ彫刻は,自由市場を経て世界中に四散しているのが実 「状です。世界に散逸したガンダーラ彫刻をまとめるということは大変 難しいことですが、できうる限り集めてみようと本図録を作ることに しました。
ガンダーラという古代の地名は,現在のペシャワールを中心とした, タキシラやスワートを含まない狭い地域とする考え方と,それらを含 めなおアフガニスタンをも含む広い地域と考える場合とがあるようで すが、ガンダーラ文化圏という意味では,通常後者と考えられていま す。しかし,スワート, バジョール,ブネール等北方山岳地出土のも のは,ガンダーラ中心部のものと比較しますと,かなりの差異があり ます。従って収録作品の出土地をできるだけ記すように心がけました。 しかし所詮学術的発掘によるものが少ないため、ほとんどのものは出 土地がわかりません。そこで,現地の発掘に携わった人々からできる だけ聞き出しメモを取りました。これらの情報は多くの場合信用でき ると思いますが,正確を期するため Probably from とし,その種の情 報がなくとも,出土地がはっきりしているものと比較してほぼ推定で きるものは, Possibly from としました。なお,アフガニスタンのも のは、今回ほとんど収録していません。
製作年代については今現在定説がありません。その始まりは紀元後 一世紀後半からと考えられているようですが,もう少し早くから始ま るとする説もあります。またその終焉に関しても, ガンダーラ中心部 では四世紀後半あるいは五世紀,しかしスリート地方では八世紀ごろ とされています。その間にあって、ある作品を二,三世紀であろう, 四、五世紀であろうと推定してみてもあまり意味をなさないのみなら ず,ある意味で危険とさえ言えましょう。従って,製作推定年代は今 後の研究に委ね,本書には記しませんでした。 本図録の目的は,できるだけ多くの作品を収録し紹介することです。
とはいっても紙面には限りがあり、選択の基準に苦しみました。まず 佛伝として珍しいものはすべて入れるようにしました。パキスタンの 薄暗い部屋の片隅で写した写真が,後に珍しい図柄であることが判明 しても時すでに遅し、ピントのあまい写真が一枚あるのみ。掲載せざ るを得ませんでした。次に佛伝で同種のものが何枚もある場合,図柄 に特徴のあるもの,特に地方色豊かなものを優先しました。まったく同じ図柄の場合、彫刻的なおもしろさで判断しました。
当初は解説なしの写真集を考えていましたが,この分野に携わる学 研の人々のみならず一般の人々にも見てもらうためには,簡単な解説 が必要と考えるようになりました。佛典を読んだことのない筆者にと って、佛伝の解説を書くということは不可能なことです。そこで,ガ ンダーラ図像の研究のバイブルとされているアルフレッド・フーシェ (Alfled Foucher 1865~1952 フランス高等研究院教授)のL’Art Gréco-Bouddhique du Gandhara (ガンダーラのギリシャ様式佛教 美術 第1巻 1905年発刊)に挑戦することにしました。フーシェは サンスクリット語に秀で,佛典に精通した人です。のみならず, イン ド, パキスタン, アフガニスタンの佛教遺跡を現地で調査研究してい ますので,ガンダーラ浮彫の佛伝の解説には, この人をおいてほかに ないと言ってもいいようです。この分野の研究の難しさは,佛典と考 古学と美術の分野が一体とならなければならないという点にあると思 えます。一人の人間でこの三つの分野を包括することがまれに可能で あったのがフー シェです。ガンダーラ図像の解釈は,海外の学者も日 本の学者も, フーシェのそれを基礎にしているようです。佛典を知ら ない筆者にとって,百年近く前のフーシェのフランス語は難解でした が,微に入り細を穿った解説に引き込まれると同時に、資料の少なか った当時にどんな小さな断片をも見逃さず,あそこまで佛伝浮彫を拾 い集めた情熱に引きずられて,第1巻の佛伝に関する部分は何とか最 後まで読み通しました。従って筆者の解説は,ほとんどがフーシ工解説によっています。佛典からの引用文もほとんどすべてフーシェの それです。
各節の初めに一般に解説されている佛伝をそれぞれに短く入れまし た。それには渡辺照宏著「新釈尊伝」(大法輪閣)と中村元著「ゴータ マ・ブッダ」(法蔵館)を参考にさせていただきました。また肥塚隆著 「釈尊の生涯」(平凡社)では、用語の使い方等でずいぶん参考にさせて いただきました。ここに深謝申し上げます。
本図録には佛伝のみを収録し,「ガンダーラ美術(II)」に、佛陀, 菩薩,神々,植物,動物, ジャータカ等その他佛伝以外のものをまと める予定にしております。
私が肥前古窯址の探査に手を染めてからすでに半世紀近くの歳月が流れた。昭和三年、私は有田の某製陶会社の招きによって五ヵ年余り有田に滞在することがあった。
古陶磁の好きな私は仕事のかたわら付近一帯に散在する古窯址を発掘していたが、たまたま唐津市周辺の窯址を調査中の、今は故人になった金原京一君との出会いによって、同君と志を同じうすることを知り、相協力してこれの達成を期し、地名や、社寺の古老、あるいは地元の農夫達の話をもとにして、五十証から八十症の重い陶片を肩に担ぎながら山を登り、谷に下って探査した窯址の数は二百五十余ヵ所に及び、発掘した陶片は十数万点にも達した。たまたま当時京都にあった陶磁器試験所の所長平野耕輔先生の来遊に際し、同先生の勧めにより、京都において、昭和七年に肥前古窯址、昭和十年に九州古窯址発掘品展覧会を開き、その折肥前古窯址分布図を昭和七年に初版を、昭和八年に二版を、昭和十年には「肥前古窯址廻り」の付図として三版を上梓した。周知のごとく大正の末頃から昭和の初めにかけて古陶磁の鑑賞と研究はにわかに盛んとなり、各地で古窯址の調査発掘が進められていた。肥前の窯址についても私等の仕事と相前後して、大阪毎日新聞社社長山本彦一翁の援助で、当時同社の秘書課におられた大宅経三氏(佐賀県武雄市真手野出身)の内田山・黒牟田山の発掘、または肥前陶磁史考(昭和十年九月発行)の著者中島浩氣氏の古窯址の調査もその頃であった。
私はこの豊富な資料をもちながら、筆不精のためにこれを記録して、報告を発表することを怠りがちであった。その間乞われるままに昭和十一年雄山閣の陶器講座に、昭和三十年河出書房の世界陶磁全集に、さらに同三十五年平凡社の陶磁全集に、その研究の一端を発表し、続いて昭和三十八年、年来私の肩にかかった責務をはたす意味において、鍋島直紹氏との共著で『唐津』を刊行したが、諸々の手違いで本意を尽くすことができず、読者 に対して誠に申し訳なく、不日改訂版を出してお詫びしたいと念じながらも思うにまかせ ず、すでに数年を経過した。
今回、はからずも出光美術館の委嘱によって同館蒐集の唐津数百点の内より古唐津の尤品百五十二点を撰び『古唐津』と題して刊行する運びとなったので、この機会に、その後の調査発掘や、新資料を増補して私の半世紀にわたる研究の報告としたいと思うが、さて筆をとるとわからないところが多く、まことに征悦たるものがある。私のこのまずしい研究が、今後唐津研究の一礎石ともなり得れば私の喜びこれに過ぐるものはない。