むし倉日記・虫倉日記・善光寺大地震について書かれた本

むし倉日記・虫倉日記について
買取をしていますと様々な本に出合います。内容的には大半は自分が知らないものですが、時々これはいったい何の本だろう?と思うことがあります。最近の本であればネットを駆使すれば多少の内容はわかりますが、古い本になるとネット情報も極めて少なくなります。そんな時は中を読めばいいのですが、読み切れないほどの本が入荷しますので読むこともできず、お客様の下に旅立つこと殊になります。今回もそんな本の一つです。善光寺大地震について昭和6年に発行されたものになります。そんな本を時々紹介していきます。

「虫倉日記」は弘化四年三月信越地方を襲った大震災に就て、 松代藩の月齢家老河原綱德がその手記を整理して置いた四卷の橋本である。惨害の最も悲しかった領內は勿論南は松本藩領 ら北は越中富山藩領に及び調査せしめて翌月岩倉山崩壊と共に堰留められた犀川の水が十有九日 で缺壊して所謂川中島四郡に氾濫した顛末に至る 迄、親しく責 任ある色に當って應急復興に盡痒した始終を記述して置いたも のである。(本書一一一八五頁)

本書に附錄した「虫倉後記」と題する一巻は嘉永七年十一月の海道沿線から此地方に及んだ震災記であり、虫倉後記續篇と称する一巻は安政二年十月の江戶震災記である。兩者とも同じ く河原氏の筆錄であり、研究上の參考資料として併せて附載することにした。(本書一八七三一一頁)

弘化四年(一八四六)三月二十四日の夜、北信濃を中心におこった、いわゆる善光寺大地震は、天下を驚かせた大事件で あった。ちょうどこの年三月九日から善光寺ご開帳がはじまっており、善光寺町は諸国からの善男善女でごった返してい た。そこへ突然の大地震で、旅人には大勢の死者が出た。善光寺へ参詣すれば仏の御利益を受けるはずなのに、大勢の善男 善女が無残な死に方をするとは、どういうことだろう。世間の人々が大きな衝撃を受けたのは当然である。この地震のことを書いたたくさんのカワラ版、クドキ歌などが出版されたのは、この災害に関する世間の人々の関心がどんなに高かったか をよく示している。

この地震の震源地は上水内郡中条村の虫倉山任近だったらしく、マグニチュード七・四といわれ、飯山町から稲荷山町に 至る一帯に大きな被害をもたらした。ことに善光寺町の被害は甚大で、確認できた死者は町民一四○三人、旅人一〇二人 に及んだ。震災後、地震塚などに葬った人骨は三百八十余俵あったといわれる。