空の道・和道流の形・武道書お譲りいただきました。兵法家伝書、実戦芦原カラテ・ケンカ十段のスーパーテクニック、空手への道・庄司寛、ありがとうございました。
空の道
本書は日本歯科大学空手部(一空会) の還暦記念であり,標題は「誕生偈」 (注1)を理念にゆく行為で,一貫した実践で成り立っていて、この「空の道」は歯学と相まつ精神文化だが,真空の用(注2)で虚空の妙(注 つ)を得る程の高尚さはない。とはいえ自然律に対し体技を方便とする不完全独 で外見三分・内観七分の協調ながら教典に頼らず,自他を作らず。武を探っ て武の無用(注4)を識るものである。 「ところで体技といえども静止の状態は問題でないが,その四次元運動の軌跡や 序破急の文筆表現は不可能である。
とはいえ近未来に斯界の外道を正す日もあろうかと、ここに正道を建書き残す次第である。
タンジョウゲ:天上天下唯我独尊をいう。「人間性の尊厳」だが,釈尊への送喝だけ に「大自然(の真理)に殉ず」と自由な解釈をしている。 (2) シンクウのユウ:誠のはたらき。 (3) コクウのミョウ:至上の成果。 (A) ムヨウ:空虚をさす。軍法のマモル・ヤブル・ハナレル(『甲陽軍鑑』)の離にあたる。 雨に釈尊42年の説法で後の8年の法花(不白筆記)の一説があり,『守破離の思想』(藤原 稜三著)もある。
ジュ・ハ・キュウ:習慣的潜在意識上の速度の変化で,序はゆっくり・急は早く・破は 中間をいう。 (6) セイドウ:神道揚心流拳法ともいう。「和」を主眼とし,対比性を従とする。
武について
計は先制の「殺人」で,武道は武士道の名残りであろう。武に道(徳)はない から武道の熟語は不可解である。 「武器に護身用はなく,すべて狂気の凶器である。尚武も武徳も「武」への郷愁 だろうが,武はプを止む,戦争は科学の母などというから不届きな武家政治の殺 人刀・活人剣の語が生まれる。それらはすべて独りよがりで,「人命」を操る実 権は誰にも無いのである。
これに反し「空手に先手なし」の名言どおり,形は受けに始まり受けに終る。 これは急場の脱出法で武術ではない。空手人ならば勇気と血気の差を認めて「ならぬ堪忍」に耐えねばいけない。空手の道は内省の独り歩きである。
あとがきにかえて
ケンカ十段と呼ばれて
こいつの頃からか, ケンカ十段と呼ばれて、私のようなもの が,と面はゆい思いもするが,人がそう認めてくれるなら一 つの勲章だと思って戴いておこう。
確かに私はケンカもした。数を数えるのもめんどうなくら いである。 過ぎたるは及ばざるが如し,と言うが,まったく困ったも のだ。
ただ,こちらから無闇にケンカを売ったわけではない。な んとなく顔に「ケンカ好き」と書いてあったのか(?), ヒマ な人間に好まれたものだ。
勿論,私も空手の技が,実戦でほんとうに使えるのか,自 分の強さはどのくらいのものなのか,常々ためしてみたい気 持ちだったので、丁寧にお受けしたものだ。
当時はケンカをして、ヤジ馬が集まり,パトカーが来るま で,5分以上かかり、悠々と姿を消せたものだが,今は2分 もすればパトカーが来る時代だ。せちがらくなったものだ。
冗談はともかく、ケンカなどしないですめば、しないにこ したことはない。