国宝・熊野懐紙・巻物入荷しました。以前にお譲りいただいたものですが、アップし忘れていましたので紹介させていただきます。
わが書道紙上鎌倉初期の遺品として熊野懐紙の名に呼ばれる一群の和歌懐紙が現存し、すこぶる注目を集めている。後鳥羽上皇をはじめめ、その近臣たちが、熊野三山に参詣の途次、和歌会を催した時に書かれた懐紙がそれである。
これについて考察を加えるにあたりまず当時における貴族の熊野詣の実態を捉える必要があると思われる。
熊野詣はかなり古い時代から行われていたが、その場合、必ず三山を巡拝するのが習わしであったようだ。三山とは本宮・新宮及び那智の三社をいい、それぞれ別々の一神が主神として祀られている。
これらはそれぞれ阿弥陀如来薬師如来千手観音菩薩とされより熊野三所権現とも呼ばれる。また三社とも十二の 摂宮を有するところから十二社権現とも言う本気の仏菩薩が衆生を救うために仮に神の姿となって現れるという本治垂迹の進行は平安末期の頃にとりわけ盛んであった。従って熊野への社参の記録も当然その時期に集中したことは言うまでもない。がその発生をとなるともはや神道史の分野に入るのでここでは立ち入ることを避けることとする。
記録に登場する歴朝の熊野詣を見ると10世紀の初め宇多上皇の参詣がその濫觴のようである。とりわけ盛行を見るようになったのは、やはり12世紀の院政時代に入ってからであるしかし一口に熊野詣と言っても当時熊野への登山は並々ならぬ労苦が伴った。